1976年に息子が生まれた時、一抹の不安を感じました。アメリカで男の子を産むとどうしても徴兵制度を考えてしまうのです。主人もベトナム戦争のとき、徴兵召集が来ましたから。病院で「男の子」と言われたとき、ベトナム戦争の事を思い出し、この子が大きくなった時は世界が平和でありますようにと祈らないではいられませんでした。

それからのアメリカは徴兵制度も廃止され、オイルショックなど不景気な時期もありましたが、ICビジネスで好景気を迎え、一般市民は戦争、徴兵とは無縁の生活をしてきました。

息子が歯科大を卒業した時は、2001年、世界を震撼させたニューヨークのテロ事件が勃発。それでも2年後にイラク戦争が始まるなんで誰が想像したでしょう。息子は開業するまで、勤めたいといい、プライベートのクリニックを当たったのですが、あまりにもHMO(健康保険維持機構)でコントロールされているクリニックは自分のしたい治療ができないという理由で、最高の設備が整った空軍のクリニックで働いてみたいと言い出しました。(歯科大の教授がそのように勧めた)私達夫婦の猛反対にも関わらず、息子は3年契約で空軍に入隊しました。

歯科医は最初から士官として入隊しますが、射撃訓練や、体力訓練もあります。体は華奢でどうみても軍隊に入るような体格ではないのですが、負けず嫌いの性格で訓練キャンプは非常に高い評価で終えました。痩せて身軽なので、壁上りの訓練の時は、スパイダーマンというニックネームがついた等と言って笑っていました。

今でも忘れられない2003年の1月、夜遅く電話がありました。 「イラク攻撃に参加する事になった。」というのです。まさかの事が起ってしまった。40代の歯科医に白羽の矢がたったのですが、奥さんが臨月で体調に問題があるので、辞退した為、(軍の命令は絶対に辞退できない。次回に延期)代わりに息子が行くことになったというのです。「代わりに行くか?」と聞かれて「イエス」といえばそれまでです。今更親が何を言えましょう。

私の両親が病気で、看護の為、私だけが日本に住んでいた時でした。私は息子を見送るのに急遽アメリカに戻り、息子が軍の飛行機でカルフォルニアの基地から発ったのは、戦争開始の2003年3月18日。ミサイルの爆撃が始まったニュースを聞きながら、又両親の看病に私は日本に戻りました。この時点では兵士がどこに配置されているかという事は、家族にも話せない極秘ですから、息子がイラクに入ったのか、周辺国で待機しているのかも分りません。一週間目に初めての息子からのイーメールが入りましたが、どこにいるかは極秘なのでいえないとの事。着いて直ぐテントの病院を作り、私達がCNNで聞いた負傷者の手当をしているようでした。コンピューターでイーメールを書くのは一人5分しかないし、書いた事は全部チェックされている…という内容でした。私と主人はイーメールに付着している情報を分析しながら、発信時間などを元に、どこにいるのか解明した結果サウジアラビアではないかという結論に達しましたが、後で全然違った事がわかりました。イスラム教の国民の世論を懸念して表面では「アメリカのイラク攻撃」に反対していた国なので、裏でアメリカに基地を提供していたという事を極秘にしたかったようです。

私は日本で病気の両親の世話をする事で心が癒され、両親は孫のイラク行きにとても楽観していたので、この時期を両親の看病で過ごせたことは幸いだったと思います。

今のところ駐屯先はイラクではないと言う事で私達家族は安堵しましたが、時間の問題でした。
その後、まもなく首都バクダットは陥落し、連合軍はサダムフセイン空港を制圧。


フセイン空港は連合軍の監置下になり、バクダット国際空港と改名され、連合軍の基地となったので、病院もそこに移る可能性はあると思っていました。任務の6ヶ月目に大尉から私達宛ての手紙が届きました。もう直ぐ彼はここの任務を終えるので、帰国が決まった事。負傷兵、兵士、現地人の治療に携わってくれた事。テントの建設、解体、その他の仕事にも積極的に従事してくれた事、等等、お礼の手紙でした。大尉の手紙の送信元はバクダットになっていました。そこで初めて私達は息子がイラクにいた事が分ったのです。

(続く)