「鹿児島人は封建的」という事を県外に出てから良く耳にしました。
具体的にどういう所が封建的なのか、どのレベルで封建的なのか良く分かりませんが、私個人としては、鹿児島人のなかでも特に封建的な幼少時代であったと思います。

祖父母は商売をしていて、お店を構えていたのですが、同じ敷地に祖父母、長男家族、次男家族、独身の叔父、そして住み込みのお兄ちゃん達10人程、女中さん3人が同居という今では考えられない大所帯でした。 母と叔母はこの大所帯の食事係りをしていました。朝、昼、晩の買出しから料理まで毎日25人分の食事係です。母親達は台所で忙しかったので、女中さんの一人が私達、いとこ達の子守役でした。

食事はお座敷で祖父母、叔父二人、父の5人。 女ども、孫ども、住み込みの丁稚どもは土間の台所に続く大部屋で食事です。大部屋といってもやっと皆が座れるくらいの大きさ。父と一緒に食事をする事はなかったのです。食事が終わると、私達、従姉妹は祖父母達が食事をしているお座敷に行って、歌ったり、踊ったりして、演芸会。 恥ずかしがり屋の私にはこれが一番苦手な時でした。

こんな大所帯にお風呂は一つ。夕方の5時ごろ、祖父が入って、その後は祖母、叔父達、女ども+子供、そして最後は住み込みの丁稚奉公という順。風呂場は夕方5時から、夜の10時までフル回転でした。

こんな生活でしたから、母や叔母の苦労は計り知れないものであったでしょう。
ところが子供というのはそんな親の苦労なんてお構いなしです。大勢の孫達はいつも喧嘩をしながら、一緒に遊んでいました。その中に同じ年のいとこが居て、私が遊んだのはいつもこのいとこ。人形遊びも、ままごともいつもこの同じ年の従姉でした。姉はどこで何をしていたのでしょう。当時姉と遊んだ記憶は全くありません。

6歳までこんな雑居生活が続いたのですが、小学校に入学して直ぐ、別居する事になりました。大喜びをして機嫌の良い母を見るのは私も嬉しかったのですが、このいとこと別れるのがとても悲しくもありました。

何ヶ月振りかで、祖父母を訪ねる事になった時、私は久し振りでこのいとこにも会える事に大喜びでした。祖父母の家が近づくにつれて、のどの奥が狭まって息が詰まるような喜びを感じた事を思い出します。別居してからは一年に3回位しか会うチャンスがなかったのです。離れてからは一度も喧嘩をしませんでした。幼くても、「めったに会わないから喧嘩なんかできない。」というちょっと大人になった思いやりがお互いに出てきたのでしょう。

私はこの従姉と今でもMSNメッセンジャーでビデオチャットをします。そして彼女の娘も今年11月に結婚予定。

雑居生活で得られたもの…それは家族の絆でした。
私は一人でアメリカに来て、そういう従姉同士の関わり合いを子供達に経験させてやれなかった事が残念です。そして東京に一人嫁いだいとこも私と同じように感じているでしょう。