「被災地の子どもたちにクリスマスカードを届けよう!」キャンペーン
〒985−0802、宮城県 七ヶ浜町吉田浜 字野山5−9
七ヶ浜町 災害ボランティアセンター
星 真由美 様(少年少女達へ)
英文の場合には;
〒985-0802 NOYAMA 5-9, YOSHIDAHAMA, SHICHIGAHAMA-CHO,MIYAGI-PREF. JAPAN
SHICHIGAHAMA-CHO Saigai-Volunteer Center,
Mrs. MAYUMI HOSHI (TO BOYS & GIRLS)
“親孝行は親の元気なうちに“ その通りのようである。人生80、90歳の今頃、私の親父は59歳の若さで亡くなった。 そのうちしよう、そのうちしよう、と思っていた親孝行は何もできなかった。十分な会話もなかった。親父はおとなしかった。息子の俺のやることに何一つ文句を言わなかった。何か物足らない親子関係のようでもあった。
私が小さい頃、喜界島の百姓では食えないので、親父は大阪へ出稼ぎに出た。 親父の仕送りで、お袋と長男の私を筆頭に5人の子供は何とか生活できた。その仕送りが時たま途切れることがあった。不景気の頃だから、仕事がない日が多かったと思う。親父は手に技術がなく、おまけに歳だったから、日雇いの肉体労働しかない。職安に行ったり、知人のツテで仕事を探したらしいが、そんな簡単にいい仕事が見つかるはずがない。見つかるのは何時も臨時日雇いばかりだった。何かあると、首にされるのは何時も臨時の日雇いが真っ先だった。だから、仕送りが途切れるのは当たり前のこと。仕送りできない時は苦しんだ思う。
アパートを借りる余裕がなかったから、大阪・吹田に住む同じ村の友人の家に下宿し、何も無駄ずかいをしないで仕送りをしてくれた。現金書き留封筒の中にはお金と一緒にその月の給料明細も入っていた。そんな状態だったから、私は昼間の高校に行くことなんか考えた事もなかった。早く中学を卒業し、大阪へ出て、働いて、家族を助けることしか頭になかった。私が中学3年の終わり頃、私だけを大阪へ呼び寄せてくれた。臨時雇いではあるが、ずーっと同じ会社で働けるようになったからである。大阪大正区の工場地帯にある中山製鋼である。
二人で、親父の会社の近くに4畳半一間のアパートを借りた。風呂なし、ひとつだけの窓の下に小さな流しと水道が付いていた。便所は共同便所だった。生れて初めて住む真新しいアパートの部屋だった。新しい畳の匂いは50数年経った今でも思い出せそうだ。そして生まれて初めて家の鍵というものを持たされた。喜界島では鍵など使ったことがない。鍵をかけるという習慣がなく、家はいつも開けっぱなしだった。だからこれがヤマト生活かと思うと同時に、少し都会人になったような気持ちになった。鍵の置き場所は何時も牛乳箱の中だった。あの当時、1軒家は玄関にマットがあったから、マットの下に隠す家庭が多かったように思う。今、住んでいるアメリカの山の中の田舎、ここブラッドレーの百姓さんの家もほとんど、家の入り口のマットレスの下に隠している。なぜわかるかと言えば、私の嫁はんがアメリカ人のハウスクリーニングをしているからである。ほとんどの家が、留守の時は玄関のマットの下に置いてあるという。大事な家の財産を預かる鍵はアメリカでも日本でも、マットの下に隠されるものようである。今の日本はどこに隠しているか知りたい。「徳さんのアホ、そんなん誰が教えるか」。
私は昼働き、夜間高校に通った。授業中は居眠りばかりだった。9時の授業が終わってからのクラブ活動の柔道は熱心で、主将にまでなった。その頃から私は大胆になっていった。チンピラの真似事をするようになった。そんな私に親父は何も文句を言わなかった。親父は本当に優しかった。食事を作るのも、私の洗濯も全部親父がやってくれた。お袋代わりである。親父は1週間おきに昼勤と夜勤だった。夜勤の時に会社の大きな風呂場で、休み時間に洗濯をやってきてくれる。夜中に会社でもらうアンパン1個を自分は食べずに、必ず私に持ってきてくれた。喜界島にはパンがなかったら、私にはパンはご馳走である。あんなおいしい味は喜界島になかった。だから私は今でもアンパンが好きである。
この優しい親父に一度だけ凄く怒られたことがある。柔道部の主将になり、調子に乗って、チンピラの真似をした時期だ。啖呵を切るような大阪弁のまき舌の言葉を稽古し、わざと乱暴な言葉を使った。服装もチンピラの真似をしてチンピラ服装をした。 その当時の親父の楽しみは無二の親友とたまに将棋をする事だった。彼の名前は米沢定八郎といった。ある時、その親父の無二の親友を私は呼び捨てにした。もう遅い。親父は真っ赤な顔になって、口に泡飛ばし、今まで聞いたこともない大きなきな声で、私を怒った。あれだけおとなしい、やさしい親父がヤクザよりも怖く見えた。その時に私は目が覚めさせられたような気がする。それから心を入れ替えてまともになったように思う。
ところが、私は定職につけなかったじゃなく、付かなかった。数え切れないほどの職業をわざと変えた。 喜界島から東京、大阪に出た私の同級生の男友達といえば、ほとんど定職について、喜界島の親元に仕送りをして、親孝行をしていた。その当時は、東京、大阪で働いて、仕送りするる息子が親孝もんといわれていた。私はそのどれもしなかった。どんないい会社に入ってもすぐに辞めた。 喜界島では「あんたの息子はどこの会社で働いているの」と聞かれる度にお袋は肩身の狭い思いをしたと思う。親父も同じ事だったと思う。本当に親不孝をしたと思う。私自身もよくわかっていた。世間に対して、親父とお袋に対してすまないとは思っていた。
でもその頃の私は恥ずかしい,すまないという気持ちよりももっと強いものがあった。それは幸せに関することだった。「人間は一生を幸せに生きなければならない」「それには,自分の性格に合った、好きになれる仕事を探すこと」「それは若いうちにしか出来ない」、そう心に決めていた。そんな本を読みすぎたせいもあると思ったが、私は記録を作るみたいにわざと仕事を変わった。 「今は親に肩身の狭い思いをさせているが、何時かは親孝行をしたい」と思いながら仕事を変わった。だから私は今思う。「親不孝をした人ほど、親孝行をしたいと思う」。何十回も仕事を変わりながら自分で商売をするようになって儲けだした。マンションも二つ借りて、一つはオフィスに、もう一つは住まいにした。三重県に小さな山も買った。 その山へ親父を連れていった時の嬉しそうな顔は今でも、はっきり覚えている。知り合いに私の自慢をしていたようだ。金を儲けるのも親孝行かなあとも思った。
27歳の時に結婚して翌年に女の子が出来た。親父の喜びようは凄かった。孫とはこんなにいいもんかとつくずくと考えさせられたほどだった。親父は会社の帰り毎日、浪速区の私のマンションに寄り、孫娘の顔を眺めて、抱っこして、物足りない顔で、バイバイを言って、大和郡山の家へ帰るのが日課になった。 今度は孫つくるのが一番の親孝行かなあとも思った。「一緒に奈良の家に住んでほしい」、親父の気持ちはわかっていたが、商売が大阪だから、どうにもならなかった。孫をあやす親父の顔を見ていると、この世の最高の幸せのように見えた。
その親父の幸せも長くは続かなかった。娘が生まれて半年もしないうちに、親父は脳溢血であっけなく死んでしまった。1週間ぐらい、無意識で鼻を鳴らしながら、寝るているだけだった。その親父に娘の手を握らせたら、握ったのだ。意識があったのだ。でもそれが親父の最後だった。まさか57歳で死ぬとは思わなかった。だから坊さんは行年を、数え年の59歳に位牌に書いてくれた。その時に私は思った。「親孝行は親が生きているうち」「自分の出来る時」「いつかしよう,いつかしよう」と思っていたら出来なくなる。「親が生きている間の親孝行」と思い、パラグアイからアメリカへ来た時にすぐ実行に移した。有り金をはたいて、妻の両親と私のお袋にアメリカ見物をさせた。でも親父が一緒でなかったのは寂しかった。 それから私は死んだ親父への親孝行を考え付いた。親父が世話になったおじさん、おばさん、親父が気にしていた異母姉妹の妹、親父の無二の親友の米沢定八郎さん。次々とアメリカ見物をさせた。親父が世話になった人に親父の代わりをするのが長男の私の役目であり、死んだ親父への親孝行だと思っている。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
本当に自分の事を思って叱ってくれる人がいるというのは大切だと思いました。 お金なんていらない、あんパン一つでも子供の心に通じるものなんですね。 要するに心ですね。 フリムン徳さん、良いお話を有難うございました。
今日もフリムン徳さんのエッセイで元気な日を過ごせますように。 いつも応援有難うございます。
今日もご訪問有難うございました。
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七ヶ浜町 災害ボランティアセンター
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“親孝行は親の元気なうちに“ その通りのようである。人生80、90歳の今頃、私の親父は59歳の若さで亡くなった。 そのうちしよう、そのうちしよう、と思っていた親孝行は何もできなかった。十分な会話もなかった。親父はおとなしかった。息子の俺のやることに何一つ文句を言わなかった。何か物足らない親子関係のようでもあった。
私が小さい頃、喜界島の百姓では食えないので、親父は大阪へ出稼ぎに出た。 親父の仕送りで、お袋と長男の私を筆頭に5人の子供は何とか生活できた。その仕送りが時たま途切れることがあった。不景気の頃だから、仕事がない日が多かったと思う。親父は手に技術がなく、おまけに歳だったから、日雇いの肉体労働しかない。職安に行ったり、知人のツテで仕事を探したらしいが、そんな簡単にいい仕事が見つかるはずがない。見つかるのは何時も臨時日雇いばかりだった。何かあると、首にされるのは何時も臨時の日雇いが真っ先だった。だから、仕送りが途切れるのは当たり前のこと。仕送りできない時は苦しんだ思う。
アパートを借りる余裕がなかったから、大阪・吹田に住む同じ村の友人の家に下宿し、何も無駄ずかいをしないで仕送りをしてくれた。現金書き留封筒の中にはお金と一緒にその月の給料明細も入っていた。そんな状態だったから、私は昼間の高校に行くことなんか考えた事もなかった。早く中学を卒業し、大阪へ出て、働いて、家族を助けることしか頭になかった。私が中学3年の終わり頃、私だけを大阪へ呼び寄せてくれた。臨時雇いではあるが、ずーっと同じ会社で働けるようになったからである。大阪大正区の工場地帯にある中山製鋼である。
二人で、親父の会社の近くに4畳半一間のアパートを借りた。風呂なし、ひとつだけの窓の下に小さな流しと水道が付いていた。便所は共同便所だった。生れて初めて住む真新しいアパートの部屋だった。新しい畳の匂いは50数年経った今でも思い出せそうだ。そして生まれて初めて家の鍵というものを持たされた。喜界島では鍵など使ったことがない。鍵をかけるという習慣がなく、家はいつも開けっぱなしだった。だからこれがヤマト生活かと思うと同時に、少し都会人になったような気持ちになった。鍵の置き場所は何時も牛乳箱の中だった。あの当時、1軒家は玄関にマットがあったから、マットの下に隠す家庭が多かったように思う。今、住んでいるアメリカの山の中の田舎、ここブラッドレーの百姓さんの家もほとんど、家の入り口のマットレスの下に隠している。なぜわかるかと言えば、私の嫁はんがアメリカ人のハウスクリーニングをしているからである。ほとんどの家が、留守の時は玄関のマットの下に置いてあるという。大事な家の財産を預かる鍵はアメリカでも日本でも、マットの下に隠されるものようである。今の日本はどこに隠しているか知りたい。「徳さんのアホ、そんなん誰が教えるか」。
私は昼働き、夜間高校に通った。授業中は居眠りばかりだった。9時の授業が終わってからのクラブ活動の柔道は熱心で、主将にまでなった。その頃から私は大胆になっていった。チンピラの真似事をするようになった。そんな私に親父は何も文句を言わなかった。親父は本当に優しかった。食事を作るのも、私の洗濯も全部親父がやってくれた。お袋代わりである。親父は1週間おきに昼勤と夜勤だった。夜勤の時に会社の大きな風呂場で、休み時間に洗濯をやってきてくれる。夜中に会社でもらうアンパン1個を自分は食べずに、必ず私に持ってきてくれた。喜界島にはパンがなかったら、私にはパンはご馳走である。あんなおいしい味は喜界島になかった。だから私は今でもアンパンが好きである。
この優しい親父に一度だけ凄く怒られたことがある。柔道部の主将になり、調子に乗って、チンピラの真似をした時期だ。啖呵を切るような大阪弁のまき舌の言葉を稽古し、わざと乱暴な言葉を使った。服装もチンピラの真似をしてチンピラ服装をした。 その当時の親父の楽しみは無二の親友とたまに将棋をする事だった。彼の名前は米沢定八郎といった。ある時、その親父の無二の親友を私は呼び捨てにした。もう遅い。親父は真っ赤な顔になって、口に泡飛ばし、今まで聞いたこともない大きなきな声で、私を怒った。あれだけおとなしい、やさしい親父がヤクザよりも怖く見えた。その時に私は目が覚めさせられたような気がする。それから心を入れ替えてまともになったように思う。
ところが、私は定職につけなかったじゃなく、付かなかった。数え切れないほどの職業をわざと変えた。 喜界島から東京、大阪に出た私の同級生の男友達といえば、ほとんど定職について、喜界島の親元に仕送りをして、親孝行をしていた。その当時は、東京、大阪で働いて、仕送りするる息子が親孝もんといわれていた。私はそのどれもしなかった。どんないい会社に入ってもすぐに辞めた。 喜界島では「あんたの息子はどこの会社で働いているの」と聞かれる度にお袋は肩身の狭い思いをしたと思う。親父も同じ事だったと思う。本当に親不孝をしたと思う。私自身もよくわかっていた。世間に対して、親父とお袋に対してすまないとは思っていた。
でもその頃の私は恥ずかしい,すまないという気持ちよりももっと強いものがあった。それは幸せに関することだった。「人間は一生を幸せに生きなければならない」「それには,自分の性格に合った、好きになれる仕事を探すこと」「それは若いうちにしか出来ない」、そう心に決めていた。そんな本を読みすぎたせいもあると思ったが、私は記録を作るみたいにわざと仕事を変わった。 「今は親に肩身の狭い思いをさせているが、何時かは親孝行をしたい」と思いながら仕事を変わった。だから私は今思う。「親不孝をした人ほど、親孝行をしたいと思う」。何十回も仕事を変わりながら自分で商売をするようになって儲けだした。マンションも二つ借りて、一つはオフィスに、もう一つは住まいにした。三重県に小さな山も買った。 その山へ親父を連れていった時の嬉しそうな顔は今でも、はっきり覚えている。知り合いに私の自慢をしていたようだ。金を儲けるのも親孝行かなあとも思った。
27歳の時に結婚して翌年に女の子が出来た。親父の喜びようは凄かった。孫とはこんなにいいもんかとつくずくと考えさせられたほどだった。親父は会社の帰り毎日、浪速区の私のマンションに寄り、孫娘の顔を眺めて、抱っこして、物足りない顔で、バイバイを言って、大和郡山の家へ帰るのが日課になった。 今度は孫つくるのが一番の親孝行かなあとも思った。「一緒に奈良の家に住んでほしい」、親父の気持ちはわかっていたが、商売が大阪だから、どうにもならなかった。孫をあやす親父の顔を見ていると、この世の最高の幸せのように見えた。
その親父の幸せも長くは続かなかった。娘が生まれて半年もしないうちに、親父は脳溢血であっけなく死んでしまった。1週間ぐらい、無意識で鼻を鳴らしながら、寝るているだけだった。その親父に娘の手を握らせたら、握ったのだ。意識があったのだ。でもそれが親父の最後だった。まさか57歳で死ぬとは思わなかった。だから坊さんは行年を、数え年の59歳に位牌に書いてくれた。その時に私は思った。「親孝行は親が生きているうち」「自分の出来る時」「いつかしよう,いつかしよう」と思っていたら出来なくなる。「親が生きている間の親孝行」と思い、パラグアイからアメリカへ来た時にすぐ実行に移した。有り金をはたいて、妻の両親と私のお袋にアメリカ見物をさせた。でも親父が一緒でなかったのは寂しかった。 それから私は死んだ親父への親孝行を考え付いた。親父が世話になったおじさん、おばさん、親父が気にしていた異母姉妹の妹、親父の無二の親友の米沢定八郎さん。次々とアメリカ見物をさせた。親父が世話になった人に親父の代わりをするのが長男の私の役目であり、死んだ親父への親孝行だと思っている。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
本当に自分の事を思って叱ってくれる人がいるというのは大切だと思いました。 お金なんていらない、あんパン一つでも子供の心に通じるものなんですね。 要するに心ですね。 フリムン徳さん、良いお話を有難うございました。
今日もフリムン徳さんのエッセイで元気な日を過ごせますように。 いつも応援有難うございます。
今日もご訪問有難うございました。
コメント
コメント一覧 (14)
今、電車で読んでいたのですが、涙が出そうになりました。
私、40半ばと言うのに何一つ親孝行していない…反省はするものも変わっていないです。それでも両親は未だに温かく見守ってくれます。少しずつ変わるようにします。
フリムン徳さんへよろしくお伝えください。
11月には弟も結婚しましたが、弟は別に生活をしています。
私のかかりつけの接骨院の先生が奄美大島の出で、父親が元教師で柔道重複士でした。
先生は高校を出た後、銀行員になりましたが、父親が亡くなったので医学部に進み、接骨院を継ぎました。
徳さんのお話はすごく考えさせられました。徳さんにぜひお伝えください。
ありがとうございました。徳さん、chiblitsさん
徳さんの様には誰でも出来る事ではありませんよ。
親戚の方までアメリカに招いて案内なさるなんてとっても優しい方なのですネ
ウヤフジ様のご加護があるからなのでしょうね。
親って常に子供には幸せでいて惜しいと思っているでしょう?私が死んでも子供達に自分のしてきた事のギルティーなんて感じて欲しくないし、それより子供達が幸せになってくれる事が一番嬉しいですから、「幸せに生きる事」が親の死後できる一番の親孝行かなって思っています。
高校卒業後富山から独りで家出してアメリカに渡り法的処置でアメリカを追い出され、カナダに逃げてきてた青年にカナダ留学中に出会いましたが、カナダでもチャランポランで彼も凄い親不孝でしたよ。サンフランシスコのサッカー観戦中に、猛スピードでうちのヴァンと駐車場の塀を壊した30代後半の植木職人の方は、日本で好き勝手して親を悲しませた挙句、親が亡くなったその日に親の貯金を全部引き出してアメリカに来たそうです。自分は酷い人間で凄い親不孝だと仰ってました。その方達もきっと自分が親の年になった頃に親の気持ちがお分かりになるんでしょうね。
親は こどもが 元気にやっていたら、それで十分幸せなんでしょうね。 学歴、職業、富でもなく 普通に元気なことを祈っているでしょうね。
私も どんなに遠くにきても 空を見上げると 両親がそこにいるように 感じます。
私の夫は 一人っ子で、この世に両親以外近い人がいませんでした。 ですから 昨年、御母さんが 92歳で亡くなりましたが、彼の心の中には 傍にいるのでしょう。 ずっと墓参りに行きたがりませんでした。 親は いい人間だったと思うと言います。 私も 自分の両親は 戦争の後、山深いところへ移住して、それから5人のこどもを 育ててくれたのだと、 感謝しています。
はらさん、 今は宿題がないので、早くにぐっすりと眠れます。 ありがたや〜。 英語の先生はサリバン先生のように熱心で 誠実な教え方でした。
暴力と殺人に関する言葉は 言葉一覧から削除していました。
チブリッツさん、 ベビーシャンプーは カイザーのドクターのアドバイスです。でも お偉いドクターは 何もいいませんです。 アメリカって、医療は分業ね。 時々、患者は質問に困ります。
日本野菜は お安くはない、山芋もね。でも 心意気で 利用しています。 友だちと一緒に購買するとらくなのですけど、いません。 すべて使うようにすれば、 生産者直送ですから、安心かな。
夏になると、オンラインは 利用しにくいです。生野菜ですから。 カリフォルニアは野菜安そうですが、税金が高いでしょうね。 ペンシルバニアは食料と衣類は無税です。 たまに行くと、野菜を買ってきます。 今 うちにあるパンプキン全部(ても、2個だけど)を オーブンで焼いています。
下URLはその時のコブクロによる主題歌で、「ボク」が苦労ばかりかけて親孝行をしたいと思った時には、癌で亡くなってしまった母親を蕾に喩えた唄です。沢山の色んな人達が親孝行が出来なかった思いを秘めて生きているんですね、是非聞いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=TfUVtF9AW34&feature=related
いいお話ありがとうございます。1歳半の息子を日本につれて帰ったことがないので、来年の春に一家で日本に行こうと決めました。これが今一番の親孝行になると思います。
私も泣いてしまいましたよ。 お父様が怒った話、極道の妻でその後弁護士になった大平光代さんの事を思い出しました。 矢張り人には真剣に自分を思ってくれる人が1人は必要なんですね。そしてそれは親である場合が多いですね。
フリムン徳さん、皆さんのコメントは必ず読んでいらっしゃいますよ。
スーパーももちゃん
スーパーももちゃんのご両親も今は安心されているでしょうね。 ご両親はやはり自分の娘と暮らすのが一番気軽でいいですよ。 スーパーももちゃんは親孝行とおもいます。 私の娘は色々心配なことがありますが近くにいてよく来てくれるのでそれだけでも安心です。人生はね〜自分で決めるものですからね〜
tekuteku2011さん
親の気持が分かる年齢がありますよね。フリムン徳さんは昭和の人そのままで残っているような方なのでエッセイを読むと古い日本人の良さを思い出させてくれます。
誓いの言葉さん
本当に仰るとおりですね! 私、父がお世話になった方、1人も呼んでいません〜 叔父伯母いとこ達には声をかけるんですけど誰もこない。 そうか!!旅費を出さないといけないのでした!
私も「家族にも生きているうちに沢山自分のできる事をしてあげて」って思います。そうそう、今夜は義理姉にメールを出すんでした!
親はいつまでも子供の事が心配ですね。私がいなくなったらっていつも心配しますけど、そのうち私の方が迷惑をかけたりして。 最近そんな事を考えるとさっと向こうに逝ってしまうのも悪くないかもなんて思っています。
むべさん
本当にアメリカは分業ですね。 でもヤブ医者さんにレントゲンを見てもらうより専門に見てもらったほうがいいかも。 CAは食べ物だけが無税で衣類には消費税がかかります。だから物によってはカメラとかオンラインで他州から買うほうが安いときがありますよ。
はらさん
Youtube見ました。初めてこの歌を聞きこのグループの名前も知りました。 いい歌ですね。 聞いている間に下のコメントが気になって音楽が耳に入らず2度聞きなおしました。 ところでこの方は今病気で休んでいるの?
はつみさん
それはご両親、お喜びになるでしょう〜〜〜 私だったらもう大興奮!今から。あれもこれもって計画練って。矢張りお元気な時に行ってあげたいですよね。沢山良い思いでを作ってくださいね!
「親不孝をした人ほど、親孝行をしたいと思う」という一文は、徳さん(初めて名前をお呼びするのに馴れ馴れしくてすみません)の人生から搾り出された珠玉の思いですね。子供がいつかみんながこう思ってくれたら、どれだけほっとする親御さんが増えることか(^.^)/。お父様ゆかりに方々をアメリカに呼ばれて旅行をプレゼントされているのはPay forward でもあり素晴らしいですね。世の中に徳さんが増えたらどれほど明るい社会になることか!
「人間は一生を幸せに生きなければならない」そうなんですよね。
でも自分だけが幸せでも本当の幸せになれない。自分の周りの人、特に家族のみんなが幸せじゃないと自分の幸せも何だか肩身が狭い感じ、あるいは偽物のような感じで居心地が悪い。人生でこのバランスを取るのが本当に難しいと思います。自分が先か家族が先か。がんばって両方両立できたら一番なのですがーー。
私は徳さんと反対に親孝行(家族孝行)が最優先で自分の幸せはいつも後回しでした。というか40歳過ぎるまで考えていませんでした。だから「何時かは親孝行をしたい」じゃなくて、「何時かは自分孝行しなければ」と遅まきながら考えるようになりました。両親を見送りかなりの年月が過ぎました。そして、死ぬほど親孝行したはずなのに、今でもやり残したことがあるような気持ちが残っています。
フリムン徳さんです。
「親孝行をしたい」という沢山の皆さんのコメントを読んで、嬉しい、おいしい、そして、暖かい気持ちにさせられました。
ほろ酔い気分もこんな気分だったなあと思い出しています。
いつも親孝行をしたいと思う気持ちは持っているのですが、「そのうち、そのうち」と言う言葉に負けてしまいました。だから、フリムン徳さんは94歳で元気に奈良県大和郡山市に住んでいる、お袋に、親孝行をしようと考えています。
耳が遠いので、電話には出てきません。手紙を書こうと思います。
でも「そのうち、そのうち」が邪魔してくるのです。「今すぐ、今すぐ」を呼んで来て、「そのうち、そのうち」を撃退するのに難儀しているところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 親孝行には切りがないようです。Morning Beauty
さんの気持ちよくわかります。
「死ぬほど親孝行したはずなのに、今でもやり残したことがあるような気持ちが残っています。」
フリムン徳さん
「親不孝をした人ほど、親孝行をしたいと思う」これは私もその中の1人です。
そうですか、Morning Beautyさんは自分の事が後回しになっていたのですか。これからは思いっきり自分孝行をしてください。きっとご両親もそれを一番望んでいらっしゃるでしょう。
「自分だけが幸せでも本当の幸せになれない。」本当にそうですよね。 家族全員が幸せじゃないと本当の幸せは感じられません。 私の周囲の人からよくしたといつも褒められますが私自身は後悔ばかりです。
フリムン徳さん
フリムン徳さんは長寿の家系なんですね!! エッセイ、コメント返信、有難うございました。