「被災地の子どもたちにクリスマスカードを届けよう!」キャンペーン

〒985−0802、宮城県 七ヶ浜町吉田浜 字野山5−9
七ヶ浜町 災害ボランティアセンター  
星 真由美 様(少年少女達へ)

英文の場合には;
〒985-0802 NOYAMA 5-9, YOSHIDAHAMA, SHICHIGAHAMA-CHO,MIYAGI-PREF. JAPAN
SHICHIGAHAMA-CHO Saigai-Volunteer Center,
Mrs. MAYUMI HOSHI (TO BOYS & GIRLS)




 “親孝行は親の元気なうちに“ その通りのようである。人生80、90歳の今頃、私の親父は59歳の若さで亡くなった。 そのうちしよう、そのうちしよう、と思っていた親孝行は何もできなかった。十分な会話もなかった。親父はおとなしかった。息子の俺のやることに何一つ文句を言わなかった。何か物足らない親子関係のようでもあった。

 私が小さい頃、喜界島の百姓では食えないので、親父は大阪へ出稼ぎに出た。 親父の仕送りで、お袋と長男の私を筆頭に5人の子供は何とか生活できた。その仕送りが時たま途切れることがあった。不景気の頃だから、仕事がない日が多かったと思う。親父は手に技術がなく、おまけに歳だったから、日雇いの肉体労働しかない。職安に行ったり、知人のツテで仕事を探したらしいが、そんな簡単にいい仕事が見つかるはずがない。見つかるのは何時も臨時日雇いばかりだった。何かあると、首にされるのは何時も臨時の日雇いが真っ先だった。だから、仕送りが途切れるのは当たり前のこと。仕送りできない時は苦しんだ思う。

 アパートを借りる余裕がなかったから、大阪・吹田に住む同じ村の友人の家に下宿し、何も無駄ずかいをしないで仕送りをしてくれた。現金書き留封筒の中にはお金と一緒にその月の給料明細も入っていた。そんな状態だったから、私は昼間の高校に行くことなんか考えた事もなかった。早く中学を卒業し、大阪へ出て、働いて、家族を助けることしか頭になかった。私が中学3年の終わり頃、私だけを大阪へ呼び寄せてくれた。臨時雇いではあるが、ずーっと同じ会社で働けるようになったからである。大阪大正区の工場地帯にある中山製鋼である。
 
 二人で、親父の会社の近くに4畳半一間のアパートを借りた。風呂なし、ひとつだけの窓の下に小さな流しと水道が付いていた。便所は共同便所だった。生れて初めて住む真新しいアパートの部屋だった。新しい畳の匂いは50数年経った今でも思い出せそうだ。そして生まれて初めて家の鍵というものを持たされた。喜界島では鍵など使ったことがない。鍵をかけるという習慣がなく、家はいつも開けっぱなしだった。だからこれがヤマト生活かと思うと同時に、少し都会人になったような気持ちになった。鍵の置き場所は何時も牛乳箱の中だった。あの当時、1軒家は玄関にマットがあったから、マットの下に隠す家庭が多かったように思う。今、住んでいるアメリカの山の中の田舎、ここブラッドレーの百姓さんの家もほとんど、家の入り口のマットレスの下に隠している。なぜわかるかと言えば、私の嫁はんがアメリカ人のハウスクリーニングをしているからである。ほとんどの家が、留守の時は玄関のマットの下に置いてあるという。大事な家の財産を預かる鍵はアメリカでも日本でも、マットの下に隠されるものようである。今の日本はどこに隠しているか知りたい。「徳さんのアホ、そんなん誰が教えるか」。

 私は昼働き、夜間高校に通った。授業中は居眠りばかりだった。9時の授業が終わってからのクラブ活動の柔道は熱心で、主将にまでなった。その頃から私は大胆になっていった。チンピラの真似事をするようになった。そんな私に親父は何も文句を言わなかった。親父は本当に優しかった。食事を作るのも、私の洗濯も全部親父がやってくれた。お袋代わりである。親父は1週間おきに昼勤と夜勤だった。夜勤の時に会社の大きな風呂場で、休み時間に洗濯をやってきてくれる。夜中に会社でもらうアンパン1個を自分は食べずに、必ず私に持ってきてくれた。喜界島にはパンがなかったら、私にはパンはご馳走である。あんなおいしい味は喜界島になかった。だから私は今でもアンパンが好きである。

 この優しい親父に一度だけ凄く怒られたことがある。柔道部の主将になり、調子に乗って、チンピラの真似をした時期だ。啖呵を切るような大阪弁のまき舌の言葉を稽古し、わざと乱暴な言葉を使った。服装もチンピラの真似をしてチンピラ服装をした。 その当時の親父の楽しみは無二の親友とたまに将棋をする事だった。彼の名前は米沢定八郎といった。ある時、その親父の無二の親友を私は呼び捨てにした。もう遅い。親父は真っ赤な顔になって、口に泡飛ばし、今まで聞いたこともない大きなきな声で、私を怒った。あれだけおとなしい、やさしい親父がヤクザよりも怖く見えた。その時に私は目が覚めさせられたような気がする。それから心を入れ替えてまともになったように思う。  

 ところが、私は定職につけなかったじゃなく、付かなかった。数え切れないほどの職業をわざと変えた。 喜界島から東京、大阪に出た私の同級生の男友達といえば、ほとんど定職について、喜界島の親元に仕送りをして、親孝行をしていた。その当時は、東京、大阪で働いて、仕送りするる息子が親孝もんといわれていた。私はそのどれもしなかった。どんないい会社に入ってもすぐに辞めた。 喜界島では「あんたの息子はどこの会社で働いているの」と聞かれる度にお袋は肩身の狭い思いをしたと思う。親父も同じ事だったと思う。本当に親不孝をしたと思う。私自身もよくわかっていた。世間に対して、親父とお袋に対してすまないとは思っていた。  

 でもその頃の私は恥ずかしい,すまないという気持ちよりももっと強いものがあった。それは幸せに関することだった。「人間は一生を幸せに生きなければならない」「それには,自分の性格に合った、好きになれる仕事を探すこと」「それは若いうちにしか出来ない」、そう心に決めていた。そんな本を読みすぎたせいもあると思ったが、私は記録を作るみたいにわざと仕事を変わった。  「今は親に肩身の狭い思いをさせているが、何時かは親孝行をしたい」と思いながら仕事を変わった。だから私は今思う。「親不孝をした人ほど、親孝行をしたいと思う」。何十回も仕事を変わりながら自分で商売をするようになって儲けだした。マンションも二つ借りて、一つはオフィスに、もう一つは住まいにした。三重県に小さな山も買った。 その山へ親父を連れていった時の嬉しそうな顔は今でも、はっきり覚えている。知り合いに私の自慢をしていたようだ。金を儲けるのも親孝行かなあとも思った。  

 27歳の時に結婚して翌年に女の子が出来た。親父の喜びようは凄かった。孫とはこんなにいいもんかとつくずくと考えさせられたほどだった。親父は会社の帰り毎日、浪速区の私のマンションに寄り、孫娘の顔を眺めて、抱っこして、物足りない顔で、バイバイを言って、大和郡山の家へ帰るのが日課になった。  今度は孫つくるのが一番の親孝行かなあとも思った。「一緒に奈良の家に住んでほしい」、親父の気持ちはわかっていたが、商売が大阪だから、どうにもならなかった。孫をあやす親父の顔を見ていると、この世の最高の幸せのように見えた。 
 
 その親父の幸せも長くは続かなかった。娘が生まれて半年もしないうちに、親父は脳溢血であっけなく死んでしまった。1週間ぐらい、無意識で鼻を鳴らしながら、寝るているだけだった。その親父に娘の手を握らせたら、握ったのだ。意識があったのだ。でもそれが親父の最後だった。まさか57歳で死ぬとは思わなかった。だから坊さんは行年を、数え年の59歳に位牌に書いてくれた。その時に私は思った。「親孝行は親が生きているうち」「自分の出来る時」「いつかしよう,いつかしよう」と思っていたら出来なくなる。「親が生きている間の親孝行」と思い、パラグアイからアメリカへ来た時にすぐ実行に移した。有り金をはたいて、妻の両親と私のお袋にアメリカ見物をさせた。でも親父が一緒でなかったのは寂しかった。 それから私は死んだ親父への親孝行を考え付いた。親父が世話になったおじさん、おばさん、親父が気にしていた異母姉妹の妹、親父の無二の親友の米沢定八郎さん。次々とアメリカ見物をさせた。親父が世話になった人に親父の代わりをするのが長男の私の役目であり、死んだ親父への親孝行だと思っている。

by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。

2011_10_07_tokusan


本当に自分の事を思って叱ってくれる人がいるというのは大切だと思いました。 お金なんていらない、あんパン一つでも子供の心に通じるものなんですね。 要するに心ですね。 フリムン徳さん、良いお話を有難うございました。

今日もフリムン徳さんのエッセイで元気な日を過ごせますように。 いつも応援有難うございます。
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