「みんなで決めよう「原発」国民投票」の 署名締め切りまであと2日。 このサイトで署名場所が分かります。 2月7日 署名数 228,171筆 。 法定署名数:(現時点では)214,236筆を越えたのですが都民ではない人の署名など、無効となる署名が2〜3割あると見込んで30万人分を集めることを目標としています。 大阪では1割が無効になったそうです。 東京都にお住まいのご親戚やお友達に教えてあげましょう。 このままでは政府と電力会社の意のままになってしまいます。






「思い出のアーケディア」
ロサンゼルスから東へ車でおよそ30分のところにアーケイデイアという町がある。 大きな高い楓の並木通りが多く、秋には深紅の紅葉が、焚き火のように通る人の心を赤く焦がしてくれる。風情のあるいい町だった。12年前にシアトルへ引っ越すまでの12年間、私はこのアーケデイアの町に住んでいた。私、フリムン徳さんの生涯でも思い出の多い町である。娘は小学校、中学校、高校まで、息子は小学校、中学校までこの町で学校に通った。
年に1度、同じストリートの家族同士が家の前のスト‘ートに繰り出してするストリートバーべキューも楽しかった。 ロスアンジェルスの住宅地よりは敷地が広くゆったりとしていた。私の家の敷地はおよそ500坪ぐらいあったと思う。隣近所もだいたい同じ大きさの敷地。ほとんどの隣近所が裏庭には大きなプールがあったが、うちにはなかった。ひょっとしたら埋めたのかも れないと、考えることもあった。だから、息子は2軒隣のエディーの家のプールでよく泳がしてもらっていた。息子が泳ぎを覚えたのも彼の家のプールだった。この通りに東洋人と して初めて移って来たのが私の家族で、一軒の黒人の医者の家族を除いて周りは全部白人の家族だった。人種差別を受けるんじゃないかと内心警戒していたが、それは取りこし苦労というものだった。逆に、皆さんに親切にしてもらった。引越しの初日には隣の人が、手伝いにも来てくれた。
特に親しく付き合ったのはリタイヤーしたエディーとオデッサの夫婦だった。あまり 英語のわからなかった嫁はんであったが、オデッサとはバラの花の趣味が合い、英語じゃなく花言葉でしゃべって、意思疎通は十分だったようだ。二人は競走するみたいに花を増やしていた。日本からお客さんが来ると、彼らの家に案内し、これがアメリカ人の住居だと、家の内外を見せてもらった。オデッサはドイツ系の優しい白人婦人で、家の中は‘つも掃除が行き届いていて、家具もじゅうたんもカーテンも新品のようで気持ちよかった。無駄な飾りはなく質素で、質素で美をかもし出す部屋の飾り付けが上手だった。彼女は、ルネッサンス風の椅子の張かえも自分で生地を買ってきてやる。その出来映えはプロ並みである。
エディーは、見上げるほど背が高くて、優しい人だった。彼の背の高いのには理由がある。元プロのバスケットの選手だったのだ。今、プロのスケットで活躍しているコービー選手にも何度かコーチしたことがあると言っていた。リタイヤーした彼の趣味は毎日のゴルフで、ハンディもすごかった。絶頂の時はハンディ2だったという。バスケットで鍛えた運動神経の固まりみたいな長身の身体でクラブを振る姿は、写真に撮りたいぐらいに鮮やかだ。私を生まれて初めてゴルフに連れていったのも彼だ。
フリムン徳さん応援団の友田英助家族が日本からうちへ来た時もエディーの家へ連れて行った。彼の目の前でゴルフスイングをした英助にベリー・グッドとか言っていたが、英助のスコアは聞かなかった。皮肉なことに、前の日に、英助にはアメリカンネームでエディーと言う名‘前を付けたばかりであった。というのは、英助からおもろい提案があった。会社の彼の部下へのアメリカ土産に彼らのアメリカンネーム つけて持っていきたいと言う。私の娘まきこが、皆さんのアメリカンネームを考えてくれた。英助には英助のエを始めにつけて ディー 友田とつけた。今は彼は、私フリムン徳さんの応援団だから、自分ではフリムン・エディーと言っている。
去年10数年振りに嫁はんと二人でもと住んでいたアーケイディアの我が家の辺りを覗きに行った。ついでに、エディーとオデッサの家に寄ってみた。二人は涙を流して、私達二人を抱きしめて、再会を喜んでくれた。二人とも容姿は10数年前と変わってなかったが、歳を聞くとやはり10数年歳をとっていた。オデッサが91歳、エディーが88歳とのこと。エディーは目が悪く車の運転が出来ない。91歳のオデッサが運転をして買い物やらをしていると聞いて、嬉しいやら、涙ぐましいやら、心配やら複雑な気持ちになった。エディーは目の前の人の輪郭がわかるくらいしか見えないらしい。でも、家の中の絨毯の上で、黄色いゴルフボールでパットの稽古をしていた。この目の不自由なエディー、黄色いタマは見えるのでまだ週に2回はゴルフ場でゴルフをしていると言う。好きなことは心の目で見えるのだろう。
このエディー達に困ったことが起きているという。ほとんど白人の家族だった隣近所が全部台湾系チャイネィーズの家族に変わったとのこと。アーケデイアの住民の80%以上はチャイネィーズになっているらしい。アーケディアの宅地は一区画が広いから、少々値が張る。でも、チャイネィーズはキャッシュで買い上げて、少し古いと、その家を取り壊して、御殿みたいな家を建てる。どうして、チャイネィーズは金持ちが多いのだろう。これは今のアメリカ人の驚きのひとつだという。
元の私の家を買った中国人は5台の車庫に建築中で、朝7時から夜7時まで、工事の騒音がひどい。エディーは市役所の建築課へ相談に行った。建築課で働いている6人の職員の内5人が中国系アメリカ人だったとエディーは嘆いていた。台湾系の中国人はいい学校の近くに集まってくるらしい。アーケイディア・ハイスクールは台湾人にとってア メリカで一番いい学校だそうだ。エディーは嘆く。中国人は彼から先に挨拶をしても挨拶を返してくれる人が少ないそうだ。親しい徳さん夫婦と同じような顔、同じような皮膚の色をしているのに徳さん夫婦とは違う様だと言う。どこかへ引っ越したいが、もう歳だからねえと、元気のない声で言った。白人が新しい町を作り、そこへ黒人が入り、日本人が入り、メキシカンが入り、東洋人が入り込む。白人はまた、郊外へ引っ越して新しい町を作る、これがアメリカの歴史だとエディーは言う。
それから半年ほどして、娘のまきこから電話が入った。目の不自由なエディーは白い杖を付いて一人、近くのレストランへ行く途中車に轢かれそうになり、息絶え絶えに、レストランへたどり着くなり、倒れこんで死んだという。エディーよ、さようなら。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」
を出版されています。

最後までフリムン徳さんのエッセイをお読みくださり有難うございました。 そしてフリムン徳さんへの応援も宜しくお願い致します。↓







「思い出のアーケディア」
ロサンゼルスから東へ車でおよそ30分のところにアーケイデイアという町がある。 大きな高い楓の並木通りが多く、秋には深紅の紅葉が、焚き火のように通る人の心を赤く焦がしてくれる。風情のあるいい町だった。12年前にシアトルへ引っ越すまでの12年間、私はこのアーケデイアの町に住んでいた。私、フリムン徳さんの生涯でも思い出の多い町である。娘は小学校、中学校、高校まで、息子は小学校、中学校までこの町で学校に通った。
年に1度、同じストリートの家族同士が家の前のスト‘ートに繰り出してするストリートバーべキューも楽しかった。 ロスアンジェルスの住宅地よりは敷地が広くゆったりとしていた。私の家の敷地はおよそ500坪ぐらいあったと思う。隣近所もだいたい同じ大きさの敷地。ほとんどの隣近所が裏庭には大きなプールがあったが、うちにはなかった。ひょっとしたら埋めたのかも れないと、考えることもあった。だから、息子は2軒隣のエディーの家のプールでよく泳がしてもらっていた。息子が泳ぎを覚えたのも彼の家のプールだった。この通りに東洋人と して初めて移って来たのが私の家族で、一軒の黒人の医者の家族を除いて周りは全部白人の家族だった。人種差別を受けるんじゃないかと内心警戒していたが、それは取りこし苦労というものだった。逆に、皆さんに親切にしてもらった。引越しの初日には隣の人が、手伝いにも来てくれた。
特に親しく付き合ったのはリタイヤーしたエディーとオデッサの夫婦だった。あまり 英語のわからなかった嫁はんであったが、オデッサとはバラの花の趣味が合い、英語じゃなく花言葉でしゃべって、意思疎通は十分だったようだ。二人は競走するみたいに花を増やしていた。日本からお客さんが来ると、彼らの家に案内し、これがアメリカ人の住居だと、家の内外を見せてもらった。オデッサはドイツ系の優しい白人婦人で、家の中は‘つも掃除が行き届いていて、家具もじゅうたんもカーテンも新品のようで気持ちよかった。無駄な飾りはなく質素で、質素で美をかもし出す部屋の飾り付けが上手だった。彼女は、ルネッサンス風の椅子の張かえも自分で生地を買ってきてやる。その出来映えはプロ並みである。
エディーは、見上げるほど背が高くて、優しい人だった。彼の背の高いのには理由がある。元プロのバスケットの選手だったのだ。今、プロのスケットで活躍しているコービー選手にも何度かコーチしたことがあると言っていた。リタイヤーした彼の趣味は毎日のゴルフで、ハンディもすごかった。絶頂の時はハンディ2だったという。バスケットで鍛えた運動神経の固まりみたいな長身の身体でクラブを振る姿は、写真に撮りたいぐらいに鮮やかだ。私を生まれて初めてゴルフに連れていったのも彼だ。
フリムン徳さん応援団の友田英助家族が日本からうちへ来た時もエディーの家へ連れて行った。彼の目の前でゴルフスイングをした英助にベリー・グッドとか言っていたが、英助のスコアは聞かなかった。皮肉なことに、前の日に、英助にはアメリカンネームでエディーと言う名‘前を付けたばかりであった。というのは、英助からおもろい提案があった。会社の彼の部下へのアメリカ土産に彼らのアメリカンネーム つけて持っていきたいと言う。私の娘まきこが、皆さんのアメリカンネームを考えてくれた。英助には英助のエを始めにつけて ディー 友田とつけた。今は彼は、私フリムン徳さんの応援団だから、自分ではフリムン・エディーと言っている。
去年10数年振りに嫁はんと二人でもと住んでいたアーケイディアの我が家の辺りを覗きに行った。ついでに、エディーとオデッサの家に寄ってみた。二人は涙を流して、私達二人を抱きしめて、再会を喜んでくれた。二人とも容姿は10数年前と変わってなかったが、歳を聞くとやはり10数年歳をとっていた。オデッサが91歳、エディーが88歳とのこと。エディーは目が悪く車の運転が出来ない。91歳のオデッサが運転をして買い物やらをしていると聞いて、嬉しいやら、涙ぐましいやら、心配やら複雑な気持ちになった。エディーは目の前の人の輪郭がわかるくらいしか見えないらしい。でも、家の中の絨毯の上で、黄色いゴルフボールでパットの稽古をしていた。この目の不自由なエディー、黄色いタマは見えるのでまだ週に2回はゴルフ場でゴルフをしていると言う。好きなことは心の目で見えるのだろう。
このエディー達に困ったことが起きているという。ほとんど白人の家族だった隣近所が全部台湾系チャイネィーズの家族に変わったとのこと。アーケデイアの住民の80%以上はチャイネィーズになっているらしい。アーケディアの宅地は一区画が広いから、少々値が張る。でも、チャイネィーズはキャッシュで買い上げて、少し古いと、その家を取り壊して、御殿みたいな家を建てる。どうして、チャイネィーズは金持ちが多いのだろう。これは今のアメリカ人の驚きのひとつだという。
元の私の家を買った中国人は5台の車庫に建築中で、朝7時から夜7時まで、工事の騒音がひどい。エディーは市役所の建築課へ相談に行った。建築課で働いている6人の職員の内5人が中国系アメリカ人だったとエディーは嘆いていた。台湾系の中国人はいい学校の近くに集まってくるらしい。アーケイディア・ハイスクールは台湾人にとってア メリカで一番いい学校だそうだ。エディーは嘆く。中国人は彼から先に挨拶をしても挨拶を返してくれる人が少ないそうだ。親しい徳さん夫婦と同じような顔、同じような皮膚の色をしているのに徳さん夫婦とは違う様だと言う。どこかへ引っ越したいが、もう歳だからねえと、元気のない声で言った。白人が新しい町を作り、そこへ黒人が入り、日本人が入り、メキシカンが入り、東洋人が入り込む。白人はまた、郊外へ引っ越して新しい町を作る、これがアメリカの歴史だとエディーは言う。
それから半年ほどして、娘のまきこから電話が入った。目の不自由なエディーは白い杖を付いて一人、近くのレストランへ行く途中車に轢かれそうになり、息絶え絶えに、レストランへたどり着くなり、倒れこんで死んだという。エディーよ、さようなら。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」

最後までフリムン徳さんのエッセイをお読みくださり有難うございました。 そしてフリムン徳さんへの応援も宜しくお願い致します。↓


コメント
コメント一覧 (23)
白人の方の思いというか、とても興味深かったです。
いま、朝のいちばん忙しい時間ですが、拝見しました〜。
エディさんが亡くなったのは残念ですけど、羨ましいような人生だとも思います。
アメリカ、カリフォルニアの青い空の下に広がる郊外の住宅地での、穏やかなフレンドリーな遣り取りが目に浮かびました。
その昔(30年前!)、高校時代の夏休み、カリフォルニアのベルモント(サンフランシスコ郊外)の家でホームステイをしました。坂の上に建つ自家用車2台分の車庫のある家は、憧れのアメリカそのもの!でした。私の拙い英語を、一生懸命聞こうとしてくれたホストファミリーの家族・・。カリフォルニアという土地柄でしょうか、フレンドリーで寛容なアメリカ人に「これがアメリカなんだ!」と思いました。(その後、イリノイ州で短期留学した際、大きな勘違いと気付きましたが・・。笑)
私もあのベルモントの家、見に行きたいなぁ。
ストリートビューで捜してみようと思います。
(時代ですね・・。)
エディさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
「みんなで決めよう国民投票(東京都)」の〆切日は明日2月9日です!
街頭署名のほかに、ご近所さんや地元商店の皆様に、署名のお願いに歩いています。人生の先輩達特に女性の方々が、本当に快く協力下さって感激しています。
ラストスパート、がんばります!
いまや中国人は世界中のあちこちに土地を買い上げ御殿のようなお家に住みお金が有り余っていますと言っていますが、それでも私は言いたいです、
もっと御自分の国にお金をお使いになったらと、まずは御自分の国をもっと豊かにすることの方が先だと思いますが、、どうして外国でお金を見せびらかすのでしょう、、、。これが以前日本が通りぬけたバブルの時代を今中国がですか?いつかはじけるでしょうね。いつかわかりませんが、今日本でもあちこちの土地が中国人の手によって高い値段で買われているようです。悲しいですね、、、時代ですかね。私の近所に住んでいた友達の中国人も最近素晴らしい御殿のようなお家を買い引っ越して行きました。年いってこのような大きなお家に住み維持するだけでも大変なのに、投資なのでしょうかね、、、
フリムン徳さん、 良い家庭をお持ちで なによりな人生ですね。 奥さんがいいですね。
アメリカ東部でも 数年前は 家を売る看板が ずらりと並び、ショックな風景でした。
私の義父母(白人の家も 白人の夫婦が購入しました。 噴古く小さい家ですが、梁のすごい家で地下室もしっかりしたものでした。その夫婦は 自分達で手直しして、そこいら辺では 一番な綺麗な家にしていました。向かいの隣人も 売却し、でも買った人が手入れをしないので、荒れてしまい、見る影もなかったです。 アメリカでは 珍しくないことです。 淋しいですね。
台湾人は中国人とは違うような気がしますが・・・、そういう話じゃない?はいそうでしたね。私大昔カナダに留学してた時から思いました、「中国人って雑草のようにホンット何処にでも居てどんどん増えていくんだなぁ〜」その後もう一つ加わって、「海外の中国人って皆凄い金持ちが多いなぁ〜!」。CAのベイエリアで借りた家2軒とも大家は中国人、サンフランシスコで娘の借りた家(部屋)も、借りようとしして見て回った家も全て中国人がオーナーでしたね。娘の借りた家のオーナーは凄く心が綺麗で親切な中国人ご夫妻で心から感謝していましたが、彼等の様な方達はとても珍しく、殆どの中国人の方って結構自己中心、人の意見を聴こうとしない方が多かったですね。「中国の常識世界の非常識」って誰か言ってましたが、朝7時〜午後7時までガンガンやられたら騒音公害ですものね!その町で車でご老人をはねそうになってそのまま走り去った車がいた事もショックでした。
私も大昔カナダに居た時に母の様な存在だったブランチ・ロビンソンをはじめこの年まで、忘れられない程素晴らしい方達に沢山出合ってすでにお亡くなりになった方達も沢山いらっしゃいますが、今はみんなと又天国で会えるのを楽しみにしています!最近は向こうの人口が増えてるんですよね〜。(笑)
私の住んでいるところは岐阜大学が近いのでいろんな国からの留学生の方がいます。中には宗教上の事情で顔を隠している人もいます。
あと岐阜市は昔から繊維業が盛んなので中国人と工場が多いので日系ブラジル人も多いです。
友達はお兄さんが南米人の女性と結婚しましたが、友達は人見知りが激しく、義理の姉に当たるその人が受け入れません。
フリムンさんにはアメリカ社会の現実をもっと伝えてほしいです。
最後にエディーさんがなくなるくだりの話は言葉が出ませんでした。
真心がこもった正直なお人柄なのでしょうね。
オデッサさん、エディ―さんも優しい方
何処の国でもチャイナタウンは繁栄のあるのみで小さくなったためしがありません。横浜や長崎のチャイナタウンもしかりです。
10年程前に中国を旅した時両替をホテルに頼みました(上海の一流ホテルです)一番大きな貨幣が偽物でした。ショックでそれから中国へは行きません。
娘が一昨年。中国語スピーチコンテストの2位のご褒美で中国から10日間招待されたとよ。私は「危なか所に何しに行くとね?」って言ったばってん娘は経験の為に行ったとよ。そしたらね、世界中から来てた生徒達が次々に食中毒で病院に運ばれたてったい、エズカ!幸い娘は幼少から「雑食」で鍛えとったけん(爆)食中毒にはならんだったばってん、生水は絶対飲まん様にしたって。でもね、食事の世話する中国人のおばちゃん達はとても優しくてみんな良か人達だったてよ。でも私は絶対中国には行かん。No 謝謝!(ノー・サンキューたい 爆)
こういう歴史があるとはいえ、古くから住んでいるお年寄りがつらい目に遭うのは悲しいですね。
中国の人たちは、郷に入っては、、という考えはないみたいです。そして、ひとり入り込んだら、イモづる式に家族や友達を呼び寄せたり、職場に入り込ませたり、そうやって地域や勢力を広げているように見えます。
(もちろん、同じような感覚でおつきあいの出来る常識的な人も中にはいるのでしょうが、、、)
エディーさんの事故が、苦情を言ったために恨まれてのことでなかったらいいのですが。残された奥様はずいぶんと心細いでしょうね。
一回目は食中毒タイ!二十人くらいのツアーでアイスクリームを食べた人が私を含めて18人が下痢嘔吐みんな真っ青になっての帰国だったとよ。
えずか〜もう死んでも行かんと思ったタイ。
ほんなこてNO 謝謝!!
勿論、ヨカ人もいっぱい居らすとよ。
お宅のお嬢さんは運が良かつよ。
アメリカの政府の考え方は広いと思います。
私の土地の奥に住んでいる白人のケンは今嘆いています。
子供の学校のことです。
「政府は有色人種を優遇しすぎや」と、また、もう一人の白人は、
「白人はアメリカのインディアンの土地を奪い上げたんだから、それぐらいは辛抱せんと」
とも言っています。
フリムン徳さん
あの背の高いエディの身体全体に優しさと言う花が咲き乱れているようでした。
エディを思い出す時には「いつも人には親切にしなきゃ」と思います。
昨日(7日)ベルモントの町のエル カミノ リールを車で通りました。
私も16年ほど前サウス サンフランシスコに住んでいたので、ベルモントはよく行きました。
昔のままです。ベルモントの昔住んだ懐かしいの家あると思います。早く行ってくだされ。
日本から来ていた甥の夫婦をべルモントを通ってサンフランシスコの空港に送りに行ったのです。
フリムン徳さん
白人は親切で、笑顔で誰にでも挨拶をする。
中国人は愛想が悪くて、挨拶をしない。
この違いはどこから来るか。
身体の大きさからも来ると思います。私の経験では身体の大きな人は割と、親切で、愛想のいい人が多かったです。
中国人の愛想の悪さは15億人という人口の多さだと思います。
生き抜くための生存競争の激しさが、挨拶なんかにかまっておれない人間にしたように思います。
フリムン徳さん
私の住む山の砂漠と呼ばれるブラッドレー、ラックウッドゥの村は土地を40エーカーより小さく分割できない法律があるそうです。自然を守るためと思います。
私の住むところはキットフォックス(金狐)の保護区なので、自分の土地であるにもかかわらず、狐の巣から離れたところにしか家が建てられませんでした。
その狐の巣を調べてもらうために、サリーナスの大学の教授(動物専攻)に調べてもらいました。
なんと3千ドルも取られました。でもその証明が無いと家が建てられなかったのです。
今はサンノゼ、ロスアンジェルスなど大都市の白人のリタイヤした人達が広い土地を買って、豪邸を建てる人が多くなっています。 フリムン徳さん
どうも白人は異人種が入り込んできたら、その土地を出たがるようです。
これが白人の運命、人生と思っているような気がします。
日本人はその土地や家をなかなか変わらないですが、私の知っている限りでは、白人はいとも簡単に家や土地を変わる人達がおるようです。
私も中国人はどうも好きになれまへん。
私は、この山の砂漠の田舎の白人が大好きです。
故郷喜界島の昔の人間とよく考え方、生活の仕方が似ています。
義理人情があります。
町の白人のことはありよく知りませんが。
フリムン徳さん
もっともっと、アメリカのことを書きますから、楽しみにお待ちくだされ。
フリムン徳さん
エディの妻オデッサはエディーが死んだ次の年、アーケイディアの家を売って、
妹の住むアーカンソーへ引越しました。
娘のまきこが知らせてきました。
ここブラッドレーからは離れているアーケイディアですが、私達や、エディ、オデッサの故郷みたいに思えてなりません。でも今は中国のようです。寂しいです。
フリムン徳さん
両親の家の並びは やはり、今も白人の人々が住んでいるそうです。 ペンシルバニア州のヨークというところで、 まっすぐな道沿いに 同じような家が並んでいました。 今は、もう、知っている人はいないのですが、夫は 思い出話をはじめると いっぱい、話します。 故郷に帰っても、誰も知っている人がいないのが、淋しいのですが、 やはり、たまには でかけてみたいと 思いました。
車で行くには 高速なので、ちょっと厳しいのですが、 夫の体調の良い時だったら、行けるかもしれません。
いろんな方と仲良くできるのは、Chiblitsさんも書いていらっしゃいましたが、徳さんの生まれもったものなんですね。最近、徳さんのことを思い出して、人との縁を大事にしようと思っています。
ところで、臨時の「話の聞き屋さん」をお願いできませんか。無料ですみません。。。
今度、下の子供が幼稚園に入園します。担任の先生はアメリカ人の白人男性です。35歳ぐらい、とても陽気な反面、厳しい先生です。
子供たちが、帰り際、彼を取り囲んで「明日も遊ぼう、遊ぼう」と言うと、「だめ。明日は、まず○○が終わってから」と言います。砂場に走っていく子供がいると、「今日は社会性を身に着ける日だ」とか言って、手をひっぱって子供をひとところに集めてきます。
私には、この先生がよくわかりません。若干、嫌いに傾きかけています。しかし、なんとかいい関係にもっていきたい。もっとニコニコして、拙い英語でも話しかけていけばいいものでしょうか。
人付き合いの達人、徳さん、そして、白人のお友達も多い徳さんに、伺ってみたいのですが。。
人付き気合の達人といわれてもうて、こんなうれしいことはおまへん。
頭掻いてから、鼻の先まで掻きますわ。
この先生は、心の狭い方で、自己中心の方のように思われます。
それか、先生という職業にまだ慣れていないかも知れません。
だから、陽気に振舞って、自分の素人振りをだまそうとしているかも知れまへん。
もし当たっていなかったら、お許しくだされ。
フリムン徳さんだったら、こうします。
この先生と目があったら、
1、先に頭を下げて、思いっきり最高の笑顔で、 「はーい、はわゆー」と言います。
2、その先生の着ている服装、靴などを注意してみ て、色、デザイン、などからええなあと思うもの を見つけて、「先生、その赤色の服、私大好き や、どこで買ったの、」とききます。
人間は自分の買ったものの質問には答えやすいよ うです。
3、でも私は英語が達者でないから、よく物をあげ ます。
私は日本酒をよく上げました。(飲まない人には だめでっしぇえ)これは話の仲でなんとなく聞い ておくのです。うちの嫁はんは、食べ物や、花を 上げています。
これは魚釣りに似てまんなあ。
そうです、人を操縦するのも魚釣りも餌がいるの です。
最後に私が、心理学の本で勉強した、経験した、人に好かれる大事なことは二つあります。
$$$話の聞き上手。親身になって人の話を聞く稽古をすること。自分がしゃべりたくても、辛抱して、先に相手にしゃべらすこと。
$$$相手を褒めること。相手の一部分にいいところを見つけて褒めること。「あんたは別嬪やなあ」ではあきまへん。これはお世辞にとられがちです。
柔道、空手を習うように、人に好かれるにも、技を覚えるために稽古と努力が要ります。
Blue Hills さん、元大工、元商売人のフリムン徳さんはこんなことしか知りまへん、お気を悪くしないで下され!! フリムン徳さん
ほんとにほんとにありがとうございます!
いま日本時間は夜中の2時半なんですけど、フリムン徳さんのお返事のおかげで、勇気凛凛、元気モリモリになってきました〜。
何度も繰り返し読んで、実行します!
アメリカ人には「ハロ〜ハワユ〜」これもやっていませんでした。たぶん、この前のエッセイのチャイニーズのように、怖い顔して睨んでいたと思います。
あと、聞き上手ですね。そして、プレゼント。
来週はバレンタインデーなので、さっそく、チョコを買いに走ります。そして褒める。
本当はこんな幼稚園やめようかと思っていたんですが、払ってしまった入学金が惜しい…。
フリムン徳さんのアドバイスを実行して、それから自分のウヤフジにお願いしてみます。
温かく深いお言葉、ありがとうございました!!