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  義理と人情 

 言葉には量りで量れる重たい言葉もある
義理と人情という言葉である。鶴田浩二と高倉健がいつも重そうに肩に乗せて歩く言葉であった。「義理と人情をかけりゃ、義理が重たい男の世界‐-−‐-‐‐―。

 私は大阪の市岡高校(夜間部)生の頃、高倉健と鶴田浩二の人情映画が好きで、よく見に行った。少しチンピラぽっいところがあった。夜間部柔道部の主将であったせいもあったかもしれない。ある休みの日、大阪石橋の商店街のアーケードを、少し度胸を出して歩いていた。確か高校卒業もう直ぐの頃だと記憶している。白いステテコ、白いランニングシャツ、大きな茶色の毛糸の腹巻、真新しい黒の鼻緒の下駄、五分刈に刈上げた頭のチンピラスタイルであった。でも心の中では映画に出てくる、鶴田浩二、高倉健になりたかったのである。ひとつだけ、違っていたのは、その日は雨だったから、雨傘を下げていた事である。

この傘がいけなかった。
 自分ではいっぱしのチンピラになりきっていた。歩き方も「俺はチンピラだ」とチンピラの歩き方を真似し意識しながら歩いた。両足の先をを45度外に向けて、投げ出すようにして肩で風を切る格好で歩いていた。間違いなく、誰が見てもチンピラに見えたに違いない。ところが本職の目はごまかせなかった。後ろから、ドスの利いた大きな声が落ちてきた。「コラ、若いのに、エエ格好さらすな」と言うなり、私の傘を取り上げ、思いきっり、自分の傘で、頭をどつかれた。無残に曲がった傘は私の前に投げ落とされた。あのドスの利いた声には重さがあった。

 モントレーの山の中の白人社会で私は心暖かい、素晴らしい英語の義理と人情という言葉をを見つけた。 人との巡り会いは宝物みたいなもののようである。この山奥に来てから、5年経ってようやく嫁はんの仕事が見つかった。近くに住むアメリカ人老夫婦、バブとアルビラに巡り会えたおかげである。偶然にもバブが私の土地の元オーナーだった。ウヤフジ(ご先祖様)が会わせてくれたようである。アルビラがすぐに、嫁はんに仕事を5軒か6軒世話してくれました。こんな山の中にも仕事はあったのです。仕事は探せばどこにもあるようです。探さないから、ないのです。ハウスクリーニングという仕事です。ある日私は二人に聞きました。「どうして、日本人の私たちに親切にしてくれるのですか」
「他の人はどうか知らんけど、私達には人種は関係ない」と言ってくれました。私は、「他の人はどうか知らんけど」の言葉でまだ、白人は目に見えない人種差別をしている人もいるように思えた。

 アルビラはそれから事あるごとに、嫁はんに仕事を紹介してくれる。そして、バブは私の未完成の家造りを手弁当もちで、手伝ってくれた。私達は、病気でお金はすっからかんになったのですから、何の御礼も出来ません。いつかはお礼返しをしようと心苦しく思っていた。昔の喜界島では義理を欠くというのは、大変なことでした。大げさにゆうたら、村中で恥さらしになることでした。だから喜界島育ちの私たちには義理という言葉が重くのしかかっているのです。鶴田浩二の映画じゃないが、『義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい』のです。

 そんな私たちに、二人に恩返し出来ることが起きた。アルビラが血液癌で隣町の病院に2ヶ月ほど入院した。これが恩返しのチャンスだと、時間を作って二人で、ずーっと病院へ見舞いに行き続けた。見舞い客は白人ばかりなのに、二人の日本人がほとんど毎日見舞いに来るのを看護婦さんたちは変に思っていたようです。身内かと思ったかも知れまへん。私達には世話になったお礼はお金でもない、ギフトでもない、病気のお見舞いです。それしか出来ないのです。それで、わかってくれるはずと思って、病院へ通い続けました。葬式の準備までしたアルビラは奇跡的に助かった。今度は入れ替わりに、バブが心臓バイパスの手術で入院した。また私たちの病院通いは続いた。
 
 元気になった二人がある日私の家へ来た。
大きな桑の木を2本を買って持ってきてくれたのです。暑い日差しよけに桑の木はもってこいなのです。いつの日か、私が彼らの庭を大きく覆っているいる桑の木を見て、「うちの庭にも桑の木がほしいなあ」と言っていたのを覚えていたのです。すぐに朝日と西日よけに家の東と西に植えました。

 根っこの周りと底をチキンワイヤで囲んで植えた。この辺は草も木も竹もすべて、モグラが根っこを食べて枯らしてしまうからです。桑の木の根がついた頃、二人がまた変な物を持ってきました。桑の木の根っこに入れるモグラ退治の薬とその薬を差し込む小さな機械です。これがほんまの親切かと感激しました。そして、これがアメリカ人の義理と人情かとも思いました。義理と人情は相手の立場になって、相手を喜ばすため、助けるためにやることのようです。アルビラが死んだ時の遺書には、私達には思いもよらぬ大きなプレゼントの遺産も書いてあった。私達は英語は十分ではないですが、故郷喜界島の昔の生活、「義理と人情のやりとり」で山の中の白人の社会で、楽しく生きる方法を見つけました。  4−19−2002 


by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。

2011_10_07_tokusan


フリムン徳さんのエッセイをお読み下さり有難うございました。 楽しいゴールデンウィークをお過ごし下さい。
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