横浜国立大学名誉教授 宮脇 昭氏緊急提言 「瓦礫でイオンの森を作ろう」
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アメリカではお馴染みの引越し運送トラックレンタル“ユーホールトラック”の助手席から、81歳の白髪の老人がゆっくりと降りた。痩せた身体は、半袖の格子シャツに着こなしたジーパン、そのジーパンは両肩からつりバンドで吊られている。日本ではあまり見なかった吊バンド、この辺の田舎のアメリカ老人はなぜか吊りズボンが多い。昔のカーボーイの名残なのかもしれない。暑さで、灰色に草の枯れた緑のない大きな牧場の鉄柵のゲイトを重そうにゆっくりと押しながら閉めた。もうこのゲイトを閉めるのは彼の人生で最後なのだ。50年以上も開けっ放しの大きなゲイトだった。白いペイントが剥がれて、さびで茶色に見える。ここは山の砂漠と呼ばれる私の住むブラッドレーのすぐ隣ラックウッドの小さな村だ。
どうして、運転席に乗っている長男のグレンがゲイトを閉めないのだろう。私はふとそう思ったがすぐ考え直した。アラスカから引越しの手伝いに来ているグレンは自分が閉めないで心臓にペースメーカーをしている病身の父親のバブにわざとさせているのである。まさに、これは優しい息子の父親に対するこの思いやり、親切なのだ。最後のゲイトを閉めるのはバブでなければいけないのである。私はグレンは味な事をすると思った。こういう光景は写真じゃなく、油絵にして見た方が、情緒ある光景になる様な気がした。いつの日にかこのようなことを私と私の息子のデールがやる光景も瞼に浮かんだ。
先にゲイトを出た私は牧場の中を突き抜ける未舗装の1本道の横に私の車を止めてバックミラーでこの様子を見ていた。「バブが長年住んだ家を出るのを私は見届ける」と私は彼らに言っていた。嫁はんは次の仕事に行くのに1時間もゆとりがあるのに、「すぐに次の仕事があるから」と嘘を言い、涙を流しながら先に帰った。別れの瞬間の顔を見るのがつらかったのであろう。アメリカ人ばかりの村で、たった一組の英語のまともに話せない私達夫婦に、親身になってに親切にしてくれた。10年以上も家族みたいに付き合ったバブと別れるのが辛かったのだろう。バックミラーに映るこのバブの姿を見ながら私はこれがバブとの“最後の別れ”と言う言葉じゃなく、“生き別れ”と言う言葉が似合っているような気がした。
この“生き別れ”という言葉を私は3日前に思いついた。81歳になるバブが長年住み慣れたラックウッドゥの家を離れて、カナダの近くの遠いモンタナの娘の近くへ引越しするから、同じ教会のメンバーの親しいジムの家へ見舞いに行った時だった。88歳になる"ジム”元気なカウボーイ老人の顔色は少し青白かった。白い白人の顔でも青白くなる。ロスアンジェルスやシアトルの日本人社会に住んでいた頃はあまり見なかった白人の病気の時の青白い顔色ももう見慣れた。ジムは1週間前に腸癌の手術をして病院から家に帰ってきてまだ4日しか経ってない。
一緒に住んでいるジムのガールフレンドのルースと、私の嫁はん、私、ジム、バブがキチンの丸いテーブルに座った。足の悪いルースはよろよろ歩きながら、アイスティーを5つ、氷の入ったコップに入れ始めた。嫁はんは、すぐに椅子から立ち上がり、ルースの手伝いをした。こういうことは嫁はんは慣れている。毎日曜日の教会の礼拝後のキッチンホールの座談会で、キッチン仕事は嫁はんがやっているからだ。「砂糖が入ってないアイスティーねー」と嫁はんが英語で言うと、ルースは多くのアメリカ人はアイスティーに砂糖は入れないという。嫁はんの英語も十分に通じる。私はコーヒーに砂糖を入れないで飲むアメリカ人、コーヒーに砂糖を入れて飲む日本人の習慣の違いを感じながら二人の老人の話を聞いた。
向かい合って昔話をする病身の青白い顔色のアメリカ老人二人には何か淋しさが漂う。もう二人ともあと4、5年しか生きられないかもしれない人生なのだ。心臓にペースメーカーを入れた弱々しい81歳のバブ、腸癌の手術を終えたばかりの88歳のジムの最後の別れのシーンなのだ。これでバブとジムはもうおそらく会えないのだ。この時に私は“生き別れ”と言う言葉が思い浮かんだ。“生き別れ”という言葉には“最後の別れ”という言葉よりも強い淋しさが含まれているように思える。
バブの引越し車を見送ってから、家に帰ると、嫁はんと私は何も口を利かなかった、利きたくなかった。心の中でがけ崩れが起こったような気持ちだった。次に車の窓から手を振っているバブの手がバックミラーに映っていたのが思い出された。 9-2008
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
いつもフリムン徳さんの応援もしてくださりとても嬉しいです。 有難うございます。
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アメリカではお馴染みの引越し運送トラックレンタル“ユーホールトラック”の助手席から、81歳の白髪の老人がゆっくりと降りた。痩せた身体は、半袖の格子シャツに着こなしたジーパン、そのジーパンは両肩からつりバンドで吊られている。日本ではあまり見なかった吊バンド、この辺の田舎のアメリカ老人はなぜか吊りズボンが多い。昔のカーボーイの名残なのかもしれない。暑さで、灰色に草の枯れた緑のない大きな牧場の鉄柵のゲイトを重そうにゆっくりと押しながら閉めた。もうこのゲイトを閉めるのは彼の人生で最後なのだ。50年以上も開けっ放しの大きなゲイトだった。白いペイントが剥がれて、さびで茶色に見える。ここは山の砂漠と呼ばれる私の住むブラッドレーのすぐ隣ラックウッドの小さな村だ。
どうして、運転席に乗っている長男のグレンがゲイトを閉めないのだろう。私はふとそう思ったがすぐ考え直した。アラスカから引越しの手伝いに来ているグレンは自分が閉めないで心臓にペースメーカーをしている病身の父親のバブにわざとさせているのである。まさに、これは優しい息子の父親に対するこの思いやり、親切なのだ。最後のゲイトを閉めるのはバブでなければいけないのである。私はグレンは味な事をすると思った。こういう光景は写真じゃなく、油絵にして見た方が、情緒ある光景になる様な気がした。いつの日にかこのようなことを私と私の息子のデールがやる光景も瞼に浮かんだ。
先にゲイトを出た私は牧場の中を突き抜ける未舗装の1本道の横に私の車を止めてバックミラーでこの様子を見ていた。「バブが長年住んだ家を出るのを私は見届ける」と私は彼らに言っていた。嫁はんは次の仕事に行くのに1時間もゆとりがあるのに、「すぐに次の仕事があるから」と嘘を言い、涙を流しながら先に帰った。別れの瞬間の顔を見るのがつらかったのであろう。アメリカ人ばかりの村で、たった一組の英語のまともに話せない私達夫婦に、親身になってに親切にしてくれた。10年以上も家族みたいに付き合ったバブと別れるのが辛かったのだろう。バックミラーに映るこのバブの姿を見ながら私はこれがバブとの“最後の別れ”と言う言葉じゃなく、“生き別れ”と言う言葉が似合っているような気がした。
この“生き別れ”という言葉を私は3日前に思いついた。81歳になるバブが長年住み慣れたラックウッドゥの家を離れて、カナダの近くの遠いモンタナの娘の近くへ引越しするから、同じ教会のメンバーの親しいジムの家へ見舞いに行った時だった。88歳になる"ジム”元気なカウボーイ老人の顔色は少し青白かった。白い白人の顔でも青白くなる。ロスアンジェルスやシアトルの日本人社会に住んでいた頃はあまり見なかった白人の病気の時の青白い顔色ももう見慣れた。ジムは1週間前に腸癌の手術をして病院から家に帰ってきてまだ4日しか経ってない。
一緒に住んでいるジムのガールフレンドのルースと、私の嫁はん、私、ジム、バブがキチンの丸いテーブルに座った。足の悪いルースはよろよろ歩きながら、アイスティーを5つ、氷の入ったコップに入れ始めた。嫁はんは、すぐに椅子から立ち上がり、ルースの手伝いをした。こういうことは嫁はんは慣れている。毎日曜日の教会の礼拝後のキッチンホールの座談会で、キッチン仕事は嫁はんがやっているからだ。「砂糖が入ってないアイスティーねー」と嫁はんが英語で言うと、ルースは多くのアメリカ人はアイスティーに砂糖は入れないという。嫁はんの英語も十分に通じる。私はコーヒーに砂糖を入れないで飲むアメリカ人、コーヒーに砂糖を入れて飲む日本人の習慣の違いを感じながら二人の老人の話を聞いた。
向かい合って昔話をする病身の青白い顔色のアメリカ老人二人には何か淋しさが漂う。もう二人ともあと4、5年しか生きられないかもしれない人生なのだ。心臓にペースメーカーを入れた弱々しい81歳のバブ、腸癌の手術を終えたばかりの88歳のジムの最後の別れのシーンなのだ。これでバブとジムはもうおそらく会えないのだ。この時に私は“生き別れ”と言う言葉が思い浮かんだ。“生き別れ”という言葉には“最後の別れ”という言葉よりも強い淋しさが含まれているように思える。
バブの引越し車を見送ってから、家に帰ると、嫁はんと私は何も口を利かなかった、利きたくなかった。心の中でがけ崩れが起こったような気持ちだった。次に車の窓から手を振っているバブの手がバックミラーに映っていたのが思い出された。 9-2008
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
いつもフリムン徳さんの応援もしてくださりとても嬉しいです。 有難うございます。
コメント
コメント一覧 (7)
私はアメリカンコーヒーに砂糖とミルクを入れないとダメな人です。
おととしクリスピークリームドーナツが名古屋に出来た時に30分並んでダズン買いしました。あまりにも甘いので砂糖なしでコーヒーが飲めました。
うちの職場に全身赤色の服のおじいちゃんがいます。20年前に亡くなった祖父もおしゃれな人でした。こういうおしゃれなおじいさんに会いたい。
年をとってから、住み慣れたところを離れるのは、つらいですね。
年をとると、痛いところばかり、つらいことばかりなんですかね。年をとるほどよくなることってありますか。。。学校に行かなくてよく、働かなくてもよく、だらだらできることとか。。。
人間には寂しい別れ、悲しい別れがあり人生ままなりませんね。
私も先日実の妹を病気で亡くし、母までがもうすぐお別れが来ようとしています。
儚い命に翻弄される日々はもうたくさんですね。
私は自分の家では、コーヒーにも、紅茶にも砂糖を入れて飲みます。そのほうがおいしいです。
「クリームとシュガーを入れますか」と、アメリカ人の家で、聞かれますと、「ノウ、サンキュー」と言って、そのまま飲みます。
レストランと家では、シュガーとクリームを入れて飲む、アメリカ人の家ではそのまま飲む。
68歳のこの歳になって、まだ、フリムン徳さんは、アメリカ人に気を使っているようです。
突き詰めて考えると、英語がまともに話せないからだと思います。
もっと、英語を勉強していたらよかった。
フリムン徳さん
バブとジムは天国で再会できたと思います。
あれから1年半して、バブは娘のいるモンターナでなくなりました。
葬式は、ここモントレーの山奥、ラックウドゥでやりました。
続いて、ジムもなくなりました。
ジムは腸癌の痛さに絶えかね、ピストルで頭を撃って死にました。あのジムの広い牧場に、ピストルの音がこだましたと思うと、さびしい限りです。
フリムン徳さん
人間の寂しい別れ、悲しい別れ、思うと悲しいですね。
でも、これが人生のドラマじゃないですか。
残りの人生、他人の噂を気にせず、思い切り、好きなことをし、楽しいことをして、
鼻唄交じりの「我が道を行こう」〜♪〜♪〜♪〜♪〜
フリムン徳さん
私の夫の母が 危篤になった時に 夫が網膜はく離の手術で、医者から 一切の乗り物を利用したら、失明すると、宣告されて、最後の別れにも 3時間ほどの移動をできませんでした。 夫の心情は 2年経った現在でも 母の最期の時のことは 触れませんから どんなにか無念だったと 思います。
せいいっぱいの親孝行をしたいい思い出も 残っていますから、悲しまないでと 支えています。
義母が 90歳から2年間、闘病で苦しんだことが、今でも 悲しいことなのですが、 遠く離れて、頼る親戚もいない一人っ子である夫と 日本人の妻、私は 時折、母の教会関係の古いお友達に
季節の挨拶を 送りのが、 母への思いです。
その皆さん方も みな高齢になり、段々通信も途絶えがちになっています。 私も 日本の姉に いつ会えるのだろうかと思うと できるときに 手紙を書いておこうと思います。