Vote YES on Proposition 37
カリフォルニア州では遺伝子組み換え食品に表示を課すかどうかが投票項目になっています。 投票は11月。
消費者は知る権利があることに賛同の方はVote YES on Proposition 37を広めましょう。 ここからFDAに貴方の声を送りましょう。
アメリカのエネルギー源を2030年までに再生可能エネルギーに変える嘆願書を2013年に議会に提出する予定だそうです。 その署名はこちら
娘は我が家で4泊して 今夕一時帰宅しました。
ほっ
明後日28日に又ここに戻って今度は6泊予定だそうです。
来週は又忙しくなりそうです。
主婦になった娘でも 帰ってくる時くらいは美味しい物を作ってあげなくちゃ〜って思うのですよ。
私の母もそうでした。
私が帰国して鹿児島に着く日は
私の好きな手料理を沢山作って待っていてくれる母でした。
1995年の冬 父が胃癌の手術で入院した時も
毎日 付き添いの病院通いで疲れているはずなのに
私が着く日 いつもより一足先に病院を出た母は デパートに寄って買出しをして
夜はご馳走を並べてくれるのでした。
母は当時70歳。
2000年の春
父が今度は帯状疱疹後神経痛で入院したので
私は急遽 帰国となり 成田に一晩して翌朝鹿児島に飛びました。
11時ごろ実家に着くとお昼ご飯に美味しい散らし寿司が用意してありました。
久し振りのお寿司です。
「わ〜美味しい〜 お寿司なんて久し振り〜」
と言って大喜びをしたら
母は
「そうよ Chiblitsちゃんが帰ってくるから頑張ったのよ」と嬉しそうに言うのでした。
この時母は75歳。
体力も落ち 膝も悪く 買出しができなくなったので
前年からお掃除 お食事の用意をしてくださる方、 Kさんを週3回お願いしていました。
翌日 Kさんが出勤日でいらした時に
「Chiblitsさん、 散らし寿司はどうでしたか?」
と聞かれて その時 初めてKさんが作った散らし寿司だったと分かったのです。
母から私が帰国すると聞いていたので
出勤日でもないのに家で作ったお寿司をわざわざ届けて下さったのです。
そんなことなら お会いしたら開口一番にお礼を言いたいところだったのにと
嘘をついた母に少し腹が立ちました。
それにしても
こんな嘘をつく母ではなかったのにどうしたのだろう。
Kさんが帰られた後 母にどうして本当の事を言ってくれなかったの聞いたら
とてもばつの悪そうな顔をして
「あのくらいの事 まだお母さんだってできるんだから…」
が返事でした。
その時 初めて 自分はなんて酷い事を母に聞いてしまったのだろうと思いました。
嘘までついて母は遠くから帰ってくる娘の為に美味しい物を作ってあげたかったのに。
それが出来なくなった自分がどんなに歯がゆかったでしょう。
今でもあの時の母の気持ちを思うと可哀想で涙が出てしまいます。
そして自分の無神経さに腹が立つのです。
今思うと その頃から母だけが自分の変化にうすうすと気がついて
できなくなっていく自分がとても不安だったと思うのです。
これが認知症の初期であったことも
当時 私達家族は誰も気がつきませんでした。
できなくなっていった母を見て
私もできる時にしておきたいという気持ちがいつもあるのです。
いつもご訪問と応援をありがとうございます。 今日も美味しいものを召し上がって楽しくお過ごしください。
コメント
コメント一覧 (91)
朝からホロリと涙してしまいました。
私の母も高齢で、時々電話してもいつも元気だと言います。
でも後で、母は数日入院していたと姉からのメールで知りました。
絶対私には知らせないようにと。
遠くで暮らしているから心配させたくないと言っていたそうです。
最近は、母が嘘をついているのではないかなと感じることがあります。
でもそれは私を思っての嘘で、実は母もつらいんだろうなと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
母が伝えてくれる愛情を私も娘に伝えられたらと思います。
Chiblitsさん、思い出を分けて下さってありがとうございました。
バークレーに留学中のKaoriと申します。
Chiblitsさんとご両親のお話を読むと、いつも離れて住む両親のことを思い出します。素敵なお話をありがとうございます。
オクラホマのかずです。
ブログを読んでいてとても共感しています。
先週日本から帰ってきたばかりで今ホームシックで毎日ブルーになっています。
父は8年前に亡くなりましたが、母は今83歳で今回会ったときに感じたのは前よりボケてきた?です。
今私は仕事があるので、もし母に何かあったらすぐに世話をしてあげられる状態ではないので少々心配になってきました。
空港まで姉と一緒に見送りに来てくれましたがその帰りに「寂しい…」と言ったそうです。
自分が若い時にはあまり感じませんでしたが歳をとると共に両親に対しての感謝や愛情をとても感じるようになりました。
今はとにかく出来る時にはなるべく日本に帰ろうと思っています。
25年以上前に母を亡くしましたが、ずっと母を思い出します。父も他界して13年を過ぎますが、親の、「あの時の思いは、こうだったのかな」ということを、フラッシュするように頭に浮かぶこともしばしばです。chiblitsさんの今日のお話を伺って、そういうフラッシュする場面も大事にしていこうと思いました。
両親にはずっとずっと学びっぱなしです。
私も最近母(80歳)に、「何でこんな事するの?」と、文句を言ったばかりです。これからは決してそんな言葉を言わないようにします。
さて、娘との関係。我家も昨日娘が1泊で里帰り。私が体調くずしたためお見舞いを口実に来てくれました。見舞ってもらう方だけど、やはりご馳走作ってしまいました。今日は疲れてゆっくり休みます。
chiblitsさんのブログを読むと自分の姿が見えて来ます。ありがとうございます。
と言うのも、私の母は、言葉は悪いのですが、私を馬車馬のように使って来ました。
里帰りをしても、毎日山のような洗濯物とご飯の用意、各部屋の雑巾がけ。
毎日くたくたで、早産しかけ、医師から絶対安静と言われても、雑巾が使えないならモップがけをしろ。病院まで運ぶのも迷惑だった。と言われました。
父とけんかをして気に入らないことがあるも酒をのみ暴れ外へ飛び出し、恥ずかしいのて大きなお腹で走って追いかけます。
このでは早産して子供が危ないと自宅へ逃げ帰りました。その日の夜緊急帝王切開で息子を出産しました。
退院二日前に母が「退院したら祖母の病院とパーマ屋に行きたいから送り迎えするのよ」と言われました。
退院後も自宅にいる時間はほとんどなく、二年間実家に家政婦のように子供の世話と並行し通いました。
そして体力的にも精神的にも限界が来て、メニエールになりました。
実家に手伝いにいけないと伝え寝込むと
そのあと母が家に来て「はい、慰謝料」と1万円 机に叩きつけて帰って行きました。
その後も体調が悪くなって寝ていると「豚みたいに寝込んで、メニエールなんて中耳炎と同じ薬だろう、怠けてあんたの友達と並べて比べたらあんたが一番デブで醜い」と言われて先月末から、もう話をするのを止めることにしました。
しかし母は私の変化に気がつかず、ある日事故のニュース映像をみていて、私に向かって「あんたもこの事故現場にいて死ねばよかったね」と笑って言われました。
父は、母流の公務員のお堅い冗談だから、真に受けるなと言われましたが、 真に受けなくても十分に苦しい思いをします。
公務員の友達は沢山います、公務員流のと言う言葉も公務員の方に失礼だと思いました。
何でも相談できて、楽しい母親が欲しい。とどれだけ願い事を心でしたか分かりません。
美味しいおかずを作った母に作り方を聞いても、「適当に作ってるから、知らない」と言われて、
チブリッツさんの母と娘の関係が羨ましくて仕方が無いです。
でも、唯一の救いは主人が優しいことです。
自分の家庭は、子供たちは、大事にしたいと思っています。
お久しぶりです。
その気持ちがとっても分かり、しんみり、しみじみしております。
私の母も料理が好きで、同じようでした。
でも、昨年92歳で亡くなりました。
良い思い出ばかり思いだす日々、
母を亡くすのは、いくつになっても哀しい事です。
故郷が近いせいか、chiblitsさんの子供時代のお話やご両親との思い出話には懐かしさや親近感を覚え、また自分の親のことと重ねていつも涙がこぼれてしまいます。
わたしは自分の親に1年に数回のペースで会っていますが、久しぶりに会うと、なんだか急に年老いて、小さくなってしまったようで驚くのと同時に苦労をかけてしまったんだな。それなのにまだなんの恩返しもできていない。と思い知らされます。
考えたくないから、いつも目をそらしてしまうのですが、親と一緒に過ごせる時間はとても少ないのだということを忘れずに、できるだけのことをしていきたいと思いました。
ふみちさん、よく頑張られたと思います。
お辛かったでしょうね。
実のお母様ですから、「話すのを止める」と決められるのもとても心苦しいことだったと思います。
でも、これからはご自分とご家族を大切になさってください。
私の近い親戚に同じような立場の人がいて、その人もですが、その子どもたちもお母さんの苦しい状況を見ていて、ずっととても悲しい辛い思いをしてきました。お母さんが辛い立場にいることは、まだ小さくてお母さんを助けてあげられない子どもには、とてもとても悲しいことなんです。ふみちさんには大切なお子さんがいらっしゃるのだから、ご自分を大切になさることで、お子さんを優しく暖かく守って差し上げてください。
でもほんとうに、よく頑張られたと思います。
娘は今六歳になり、分かるようになって来ましたので、時々「ばあばに意地悪言うのもう止めてっていってみて!」と私に語りかけてくることもあります。
我が家にいると喧嘩もいさかいも、暴れる人も居ないので安らげますが、長年実家にいかなければならない、と思い続けて生きてきただけに、辛い中実家に行かないと!と強迫観念にさいなまれます。
心穏やかに生きていけるよう頑張ります。
コメントありがとうございました。
チビリツさん、胸が痛くなりました。お母様のお気持ち、そしてチビリツさんのお気持ち、切ないです。できなくなってくることへの歯がゆさ、苛立ち、普通にしてきたものを普通にできなくなっきて行動に移すことに臆病になる、私もちらっと母の言葉の端に感じることがあります。元気でいてくれるから安心とはいえ、やっぱり数年前とは違いますから。そして子供がいるので、自分が自由に身動きできませんから、その辺りの兼ね合いで時々辛くなります。先週は主人の叔母が病院で亡くなりまして、急だったのと、医者に診てもらうその直前、医者の前で帰らぬ人となったものですから、自分の中でかなりパニクりました。このブログにいらっしゃる方は両親と放れて暮らしている方が多く、共感するところがありますね。
あるとき母が入院したことがあるのですけどそのときに私には旅行に友人と行くのでしばらくいないのでというのです。
行った先が気に入ればそこにちょっと滞在が延ばすかもしれないと言うのです。
私はそのときちょっとおかしいと思ったのです。
普段から旅行をしない人なので何でと思ってまたいつも人に気を使う人なので長く友人ということもひっかリました。
どんな人と行くのが気になりいろいろ私も質問したのですよ。
後で母が私行ったこといつか友人と旅行に行くといったのはうそだったと実は病院に入院するのだったと。
私が心配をするといけないのでうそをついたのでしょうね。
私があまりなんだかんだと聞くので答えるのに大変だったといっておりました。
母も85歳ということもあり私が日本に行ったときあれもこれも作ってあげたいと思うけど体力的に大変なようなのでそんなにつくらないくていいよ、また私が作るからといってもなかなかオーケーがでません。
無理しないでというのですけどいつもしてあげたいがうまくいなくてという母なので。。。
お母さんだけでなくて私だって年を取っているんだよ。
昔でできたことでも今は私でも大変なこともあるからお母さんができなくなっても当たり前なんだから気にしなくていいよといいます。
年をいってもプライドがあるんですね。
だから母の好きなようにさせてます。
そしてほめてあげるようにしています。
私の母はまだ50代ですが、祖母が70代。
認知症が始まっており、自分で忘れてしまう事が分かっており、とても辛いようです。
私は関東に住んでおり、実家は九州。
とても離れているので、chiblitsさんのお話が、これからのわがことのように感じられました。
母や祖母へ、子や孫として今のうちにできる事を精一杯行っておくのも、勤めなのだと感じます。
それにしても美味しい物を用意してくれるお母さん…羨ましい(笑)
うちは料理が好きではありませんでしたから、あまりそういった事はないのですが、それでも母の料理は好きです^^
イギリスに住んでいます。
1年前に実家に帰った時に母が認知症だとわかりました。数年前から同じ事ばかり言って変だなと思っていたのですが、家族の誰も気づかず、父と母の姉がもしかしたらと私に言いました。
母は昔から私と姉が電話しても心配かけてはいけないといつも「大丈夫、元気!」と明るい返事でした。
父は86歳、母は82歳です。
父も肺がんと脳梗塞を患いました。
現在、弟夫婦同居していますが、結婚したばかりで子供がまだ1歳、弟は入院、両親は年寄りという状況です。
母のことを思うと胸が苦しくなり、何度も涙をこぼしました。
いつも心暖まるブログをありがとう御座います。
励ましのコメントありがとうございました。
病気だと私も確信していますが、本人が病院へ行こうとしませんし、回りも私におかしい事を言われても許してやれと我慢を強いてきましたので、結局このような結果になりました。
母は、あんたを育てたお礼に今実家に通いお手伝い代わりに働くことは当然だと言われてことがあり、回りの人間も里帰りでは実家の掃除洗濯をしているんだと勘違いしてました。
友達に話すと、びっくりされてしまいました。
強子さんの仰る通り、親とは縁は切れませんし、付かず離れて暮らしていこうと思います。
まずは自分の家庭をしっかり作っていきたいと思います。
本当にありがとうございます。
いつまでも元気で健康でいてほしいものです。
1.むむ、私70歳になっても、子供達が帰ってくるからって、あの手のかかる日本のお寿司を作ってあげる元気があるだろうか? 2.ひぇ〜、お母様75歳でもおできになった! 3.ホッなるほどね〜、お手伝いさんが作られてたんでっか! 4.ギクッ、「どうして本当の事を言ってくれなかったか聞いた」とな!これも凄い。 5.そしてお母様の可愛らしいお返事・・・。
私がチブリッツさんのお立場だったら、同じ様に「お手伝いさんにお礼言わなきゃ!」って気持ちになりますよ。お手伝いさんが黙ってプリテンドして下さっていたら良かったですねえ。でもきっとお手伝いさんもチブリッツさんのお口にあったかどうかお知りになりたかったのであろう。 う〜ん、誰も悪くなくて、みんな人の事を大切に思ってみんなヨカ!
今日は日曜だと言うのに息子は学校行事で10kのハイキングに8:30に家を出たんですが、私朝食と昼食作る為に今日から冬時間って事をスッカリ忘れて6時半に起きちまいましたあ〜、夕べは2時就寝だったのにさ。(チッ)だいたいこの学校って普通殆どランチ持参なんてないんですよ、なのに何で日曜なのにランチ持参なんザンショッ、ちっとは母の事考えて欲しい。(考える訳ないか) 私もねお久のランチ作りでしょ「10kのハイキングだからスタミナつけなきゃイカンのぉ〜」って、実はランチもデザートも気合入り過ぎました。息子が「えっ、こんなに大きいのぉ?」ってたまがってた。(爆)
はっきり言って一か八かで答えたものばかりでした。
仕事柄認知症の利用者さんと接していますが、前の職場が身体介護ばかりだった半面、メンタル的ばこともあり、仕事がハードになりました。
この話はすごく参考になりました。ありがとうございます。
母親って、子供が何歳になっても美味しい物を作って食べさせて
やりたいと思いますよね。
その上に孫も一緒となれば、頑張り方は半端じゃなくなりますね。
年に1回か2回しか帰省しませんが、母は何を食べたい?と必ず
電話で聞いてくるんです。美味しい漬け物だけで良い♪と答えて
途中のスーパーで買い出しして、娘や息子達も一緒の時は嫁も
交えて台所に立ちます。10年くらい前までは、上げ膳据え膳だった
けど、高齢になった今は、この時だけノンビリしてもらいます。
お母様、ご自分でも気付いていらっしゃったんですか?夫の母親は
腰を複雑骨折してから寝た切りになって、それからです。家族と
一緒に生活していたのに、誰も気付かずにいたのが悔やまれます。
83歳の母は 今はまだ元気に暮らしています。でもちょっと体調が悪くなると 気弱になるようです。
59歳の私でも 後何年も生きられないのだから、少しずつ整理して身も心も軽くなっておかなくては、と思うので、83歳の母は 切実に人生の最後が近いことを感じていることだろうと、思います。何ともいえない寂しさ、怖さが、あることでしょう。ちょっと体調が不良になると気弱になるのも仕方ありません。
ほんと、重いと感じるほど、愛を注いでくれる母です。何歳になっても、そうです。 重いなあ、と思っていた母の愛をやっと素直に受け止められるようになってきました。 できるだけ長く生きていて欲しいです。
chiblitsさんは遠くアメリカにいても それを感じさせないぐらいご両親とは 最後まで良い時間を過ごされたと、思うのです。
その豊かな時間が こんどはお子さま達との時間に反映され もっと良い時をもたれることと思います。
私も娘に 美味しい物をごちそうし、たわいもないことで笑い 一緒に何かをして 過ごす 何気ないひとときを 精一杯楽しもうと思います。
兄嫁の家事が気にくわず85歳くらいまで自分の事は自分でやっていました。自転車に乗って買い物に行っていましたので同居している兄夫婦はハラハラの連続だったと思います。
物忘れが激しくなった85歳の時鍋やヤカンを火にかけている事を忘れたり、買い物に行って自転車を忘れてきたりして自主的に家事を止める事を認めたのです。
あれから10年、95歳の天寿を全うして一昨日亡くなりました。
気が強い母でした(~_~;)
ふみちさん、
「実家に行かなければという義務感」で思い出した話があります。
アメリカ人のお話(私の友達の友達の話)なので、日本人の私には初め驚く部分もありましたが、でも親子の気持ちは基本的に万国共通なところがあるのではないかと思います。
ある女性がいて、いじわるなお父さんに育てられました。親子の情はもちろん深いものの、女性は「私は違う人生を生きたい」と決心しました。結婚して子どもができ、その子どもを愛情深く育てました。
あるとき、でもはやりお父さんに孫を見せてあげようと連れて行きました。お父さんはやっぱり女性に意地悪のままでした。初めて会う孫は(たぶん6歳ぐらいだっと思います)、教えられたとおりお行儀よく対応していましたが、おじいさんが裏庭に行ったとき、すばやく裏庭の鍵をかけておじいさんが戻れなくしてしまいました。そして言いました、「ママ、帰りましょう」。
愛情深く育ったお子さんは、どういう立場であれ、人を意地悪に、敬意を払うことなく扱うことはいけないことだと感じ取って、お母さんを守ったのだと思います。
同じような事情にいる人(アメリカ人)の話を聞くことがありますが、悩んだ末に(やっぱり親子ですから)、ときどき電話をしたり、クリスマスや感謝祭のときに訪問するぐらいにとどめるという方法を取られている方も多いのかなという気がしています。
心健やかにお過ごしくださいね。
おはようございます!
子供に自分が病気であることを知らせない親心には涙が出てしまいます。 離れているって本当に悲しいですね。 若い時は自分のことしか考えずに飛び出してしまいましたが自分も年をとると親の気持ちが痛いほどに分かるようになりますね。 OJさんが幸せで居ることが一番の親孝行と思います。OJさんがアメリカで楽しく暮らしていることを話すだけでもお母様は嬉しいと思います。
親の介護、海外に住んでいなくてもこれは大きな問題ですよね。 親は子供から優しくされると嬉しいです。そして最後は親の為ではなくて自分の為というふうに感じてきます。 皆それぞれに違う過去がありますから同じようにはいきませんが 親が年をとって弱くなると自然に芽生えてくる気持ちですからmgさんもきっとそうなりますよ。もう既にいつも頭の片隅で考えているくらいなのですから。
私もそうでしたよ。母が若くて元気な頃は私も言いたい放題。BJ Mamaさんもご両親が健在だからですよ。でも娘と長く居ると自分の娘でさえも同居に?が付きますね〜。それでも娘は段々優しくなってきましたよ。多分私も段々弱くなってきたからでしょうね。BJ Mamaさん、未だご両親が健在で子供達は家にいて一番楽しい時期ですね!
初めまして!
バークレーですか!近いですね!
子供が羽ばたいて広い世界に飛んでいくのを見るのも親は嬉しいものですよ〜。 Kaoriさんが幸せならご両親にとってはそれが一番嬉しいことでしょう。
お久し振りです。
日本から帰ってブルーになる方多いです。
お姉さまが近くにおられるのは安心ですね。
私も若い時は親のことなんて考えていませんでした。考えていたらアメリカまで来れませんよね。先のことなんて全く考えていませんでした。でも年をとってくると段々親を思う気持ちが出てくるものなんですね。かずさんも自然とそんな気持ちになられる時期になったのでしょうね。 そうですね、できる時には帰られるとお母様も喜ばれるでしょう。
温かいご家庭とお子さん我6歳まで育ってきて 良かったですね。
あなたは 優しいお方なのでしょうね。 でも これからは 少しご実家と距離を置くことで ふみちさんの生活を第一になさってくださいね。 そして気持ちを強く持つことだと思います。
お父様かどなたかお分かりになる方に 手紙を書き お気持ちを伝えるということも 周りの理解を得ていけるのではないでしょうか。 そしてお母様ご自身が心身の健康を改善していける機会を持てるといいですね。 ふみちさんも お母様も これから お幸せに暮らしていけるようにと 願っています。 私の母は老年に苦労がありましたが、主張することのない性格だったので、誰も母の本当の気持ちを分かったいなかったのではと思います。ないがしろにされている母をみると切なかったのですが、母の純粋さは 老いても失われなかったのを懐かしく思います。 お元気でね!
25年前ですか!
早くにご両親を亡くされたのですね。
本当に思い出は大切にしていきたいです。 私は段々自分が年をとってきて両親との思い出は娘に話しておこうと思うようになりました。 自分がいなくなると私しかしらないことが消えちゃうことがとても勿体無いって思うようになったのですよ。本当に親から学ぶこと多いです。
私も親を思う気持ちは大きかったのに口から出る言葉はきつい時もありました。やはり母が認知症だとはっきりわかっていなかった頃です。こんなことにならないよう、今から認知症について家族に教育しています。
Inuloveさんもお嬢様が帰るとご馳走作っちゃいますが。想像できます。 段々できなくなると外食になるんでしょうね〜。 その時はその時です。できるまで続けたいです。
お母様も喜ばれるでしょう。 娘が優しい言葉をかけてくれるだけでも嬉しいです。
火曜日に 胃カメラ検査の予定でしたが キャンセルしました。来週はじめは 停電かもしれませんからね。 夫は 私をみて、こんなデスオーガナイズな人はみたことない、なんて いいますが サルベーションアーミーの話が気に食わないでプンプンしてるのですよ。大丈夫、夫の物は 手をつけないでおきますわ。おいしいものを食べさせているので、今日はおとなしいですたい。(フフフ)
誓いの言葉さん〜〜ご愁傷様でございます。 大往生のお母上様でしたが いつまでたっても別れは淋しいものですね。ここには同じ九州人のチブリッツさん、はらさんが いますから 遊びにいらして 心を休めてほしいものですたい。
夫婦仲のよい幸せ一杯のふみちさんにそんなに大変な過去があるとは想像もしませんでした。
ちょっと私の祖母を思い出してしまいました。祖母は父を生んだ後産褥熱にかかり直ぐに父は乳母に渡されて3年間は自分の母知らずに育ち、3歳で家に戻った時は母と子の関係は全く崩れてしまっていました。父も乳母の方に懐いて母親としては可愛くなかったのでしょう。 子供の時から母親に厳しくされ6歳で胃潰瘍 吐血でした。可哀想な可哀想な幼年青年時代です。それだけに妻を大事に子供達(私達姉妹)を可愛がってくれました。 父は結婚と家庭で救われたと思います。 ふみちさんも優しいご主人で本当に本当に良かったですね。 一番大切なのは今の生活、自分の家族です。 辛かった分だけきっと幸せになれますよ。 父がそうでした。後半はとても幸せな生涯でした。
ふみちさんもかいておられるように「自分の家庭は、子供たちは、大事にしたい」この様に辛い事を自分の幸せの糧にしていくところは凄いと思います。 私が父を尊敬しているところはそこです。 ふみちさんも幸せになってくださいね!
こんにちは!
お久し振りです!
92歳ですか! 母が今生きていたら87歳です!
良い思いでばかりが残るものですね。 母は最期の半年は子供が分からない状態でしたが 今となってはその頃のことは思い出さないのです。母が元気だった頃ばかり思い出します。
誓いさん、
お母様が天に召されてどんなにかお寂しいことでしょう。95歳だなんて物凄く長生きでしたね、羨ましか!私はCAにいる時に母を亡くしましたが、今でも生活の中に母の笑い顔が出てきます。母が亡くなった時友達が言った一言「子が親を送るのは順番だから。」で一気に落ち着きました。誓いさんとご家族の心が豊かに慰められますように。誓いさんは親孝行もんバイ。
お母様は一人暮らしですか。 東京から千葉なら近いですよ! 私の両親は鹿児島、姉は東京。そうですね、これからは一緒にいられる時間を大切にしてあげたらいいですね。 そういう気持ちはお母様にも直ぐに通じるものですよね。
初めまして! いつもご訪問有難うございます。
一年に一回ペース、私もそうでした。 両親が来れる間はなるだけ両親に来てもらって両親がこれなくなってからは私達が行きました。 私は仕事をしていたので子供だけ生かせた年もあります。一年でもそんなに変わる年齢があるのですよね。 一番の親孝行は子供が幸せでいること。それに時々優しい言葉や便りをもらうと嬉しいものですよね。 子供から聞いて嬉しい事はみなが元気なこと、仕事がうまく行っている事、嬉しいニュースは親を元気付けますね。できる範囲でできることをする…が一番と思います。できることもしないで時間が過ぎていってしまいますものね。
母を看ていましたから一番怖いのは自分でなくなってしまうことです。 最後にこんな形でお別れをするのも辛いし、周囲に大変な思いをさせるし、 認知症にはなりたくないのが本当の気持ちです。誰だって同じですね。
でもね 不思議と今は最後の母を思い出さないのですよ。残っているのは50代、60代の母です。 身近に亡くなる方があると色々考えさせられますよね。
はらさん〜ハハハ 息子も たまがった巨大弁当、大丈夫、大丈夫、むらがって食べる友達がいますよ。 はらの弁当をあてにしろってね、シェアする心を育むのは 友人関係にありかな。ハハハ
食習慣も こどものころから作られるから 手作りは大事ですよね。
記事を読ませて頂きながら、母とダブり、
母は、いつまでもどこまでも母・・・涙が溢れ出てきました。
逆の立場で、娘さんに美味しいご馳走ですね p(*^-^*)q ♪
歳をとること、自分の体が少しずつ変わることにきっと私の祖母も、きっと多くの方が悲しい気持ちを持たれているのではないでしょうか?
私の父は52歳で亡くなりました。
伯母も40歳の若さで亡くなったので、自分よりも早く死んでしまった我が子を親不孝ものだ、と言うこともありました。 本心は、寂しかったのだと思います。
3年前に92歳で亡くなりましたが、老いるのは怖いと正気の時には言っていました。
だから、認知症は神様が下さるプレゼントだと、誰かが言われていた言葉に納得してしまいます。
母が子供を産み、愛情を持って下の世話から食事も口に運んで食べさせて頂いて今ある私ですから、それを忘れずに、もし私の母もそんなケアが必要になったときにはお世話させて頂きたいと思いました。
chiblitsさんのお母さんもお父さんも幸せでしたね。 娘さんがそうして何かあった時には来てくださる。今も近くのお墓にねむっておられて、話題にものぼる。
そんなときには一緒に隣に座ってらっしゃったりするものなのですよ。
思い出すことは供養のようなものなのでしようね。
今日の晩酌には父のコップとつまみを用意しようと思います。
母も私が帰るときは、電話で「何食べたい?いもこ(芋子汁)が?納豆汁が?餅も搗かねどな!」と、私の好きなものを聞いてくれます。
そして、毎日のように並べてくれます。
孫(私の子供達)の食べたいものよりも、まず私の食べたいものを聞いてくれます。
幼なじみのお母さんが、私が帰るのにあわせて『笹巻き』(ちまき)を作って持ってきてくれました。
「やっぱり、◯◯のおかあさんの笹巻きはうまいなー。」ってニコニコして食べていたら、「お母さんも、笹巻き作れるんだがら・・・。」と、ちょっと怒りながら、それでいて寂しそうにつぶやいたことありました。
「あー、言ってしまった。ごめん。」と思ったのですが、言えませんでした。
今度は、母だけを褒めたいです。
親ってそんなに子供に心配をかけたくないのですね〜。入院を子供に隠すのって上のコメントでも何人がいらっしゃいましたね。
そうなんですよね〜。年をとってもプライドがあるんですね〜。
恵子さんも一年に何度もお母様の為に帰国ですね。お母様 嬉しいでしょうね。 70歳を過ぎた頃からいつもあと何回会えるのだろうって思うとできるだけ帰らなくちゃと思いました。でも帰れる状態にあるとうのは恵さんも幸せですね。帰りたくても帰れない人が多いですから。
認知症の初期は自分でちゃんと変だって分かるのですよね。母も自分から2度も脳外科に行ってCTスキャンを受けていました。 不安な時期でしょうね。 私もじいさんも昔お隣のおじいさんからお話があるからきてくださいと言われて行ったら、自分は認知症と言われたと告げられました。 例えばピーナツバターとジャムを冷蔵庫から出して 使った後 蓋合わせがなかなかできなくなったと言うのですよ。とても自分の事を冷静に見ているんですね。病気のことも理解しているし、本人が一番辛いのだと思います。お料理をされないのなら一緒に食べにいく楽しみがありますよね。私の叔母は料理が好きじゃないので叔父がよくレストランに私まで誘ってくれます。 よく外食する人はどこが美味しいのか良く知っていますね。
まあさんは10位下の私よりもパンをよく焼かれるしお菓子も作られるし いつも凄いなぁ〜と思ってお料理の写真を拝見しています。
うわ〜〜〜お孫さんからお正月料理のリクエストですか!!お孫さんラッキー!! 今年の孫のお誕生日は私の係りだったのですよ! でも丁度水道工事と重なって外食とあいなりました。 本当は心の中でほっとしましたよ! へへへ。私もこんなこと言っていないでまあさんを見習って頑張らなくちゃ!!
初めまして!
お母様のことご心配ですね。 認知症って本当に数年くらいは家族も気が付かないのですよね。お医者さんも分からないくらいです。
弟さんが入院ですか。ご両親もいてそれは大変ですね。子供が1歳ではお嫁さんも大変ですね。 姉と交代で実家に帰ったのですが夜は母が起きだすので私は寝ることができずお手伝いさんを頼もうと思って何人かお会いしたのですが母の様子を見て全部断られてしまいました。 そんな時介護のことを知ってマネージャーさんとお話をして毎日3時間!介護の方を派遣してくださったのです。 あの時は本当に助かりました。Yokoさんもそういう方法があるかもしれません。
良かったですね。
皆さんがふみちさんを応援していますよ。
お母様は心の病があるのかもしれませんね。 お父様も我慢していらしたのでしょうか。 お母様はふみちさんが小さい時からそうだったのですか? もし途中から、ふみちさんが大人になられてから変わったのであったら病気かもしれません。私も3年くらいで変わってしまった方を知っているのですよ。 以前このブログにも書いたのですが病院で調べたら水銀中毒(お魚の食べすぎ)だったのです。人間の頭はどうなっているのか、認知症の母は私が誰か分からなかった40年振りで会う他人はだれか分かったのですから、不思議です。
私も母には随分わがままで勝手なことを言っていました。 母はおとなしくて優しい性格でしたから言い合って衝突するようなことはなくて私が一方的に言いたいことを言う感じでした。 結婚してから私が変わりました。親から離れて親の有り難さを知ってやさしくしなくてはと思うようになりました。当時の私と比べると娘は天使のようですよ。じいさんに似てよかった!
でも後悔して反省して改めるからいいのですよね。遅すぎることはないです。 お母様もいつまでもお元気でいらっしゃるといいですね。
Kさんは何と!病院で糖尿病食を担当していらしたんですよ。その前はデパ地下でご主人とお惣菜やさんをしていらしたのですがご主人が脳梗塞で倒れてお店を閉じて病院やら料亭でシェフをしていらしたのですよ。だから私は彼女が来る日はいつも台所でお手伝い 色々習いましたよ。
私が悪かったのですよ! Kさんだったのか〜ってそこで終わればいいものを。
イギリスの子って普通はランチって矢張りサンドイッチですか? それともパンとチーズとワインとか。そんなことないか! そしてランチって何に入れるんですか。 子供達が学生の時は私はね日本製の素晴らしいお弁当入れを使っていましたよ。外から見ると本に見えたりとかね。ご飯が多かったですね。
試験が終わっておめでとう〜
凄いですね!今度はケアマネの試験だったのですか!
スーパーももちゃんが試験にパスしますように!!
私は母の時どれほど介護の方達に助けられたことか。 あの時介護の方達が着てくださらなかったら私は倒れていましたね。 毎日3時間来てくださって母のお話し相手をしてくださいました。その間に私は睡眠をとったり、買出しに行ったりできました。 6人くらいで交代だったのですが、もう皆さん素晴らしい方ばかり。母が失礼なことをいっても聞き流してくださったり。 いくら聞き流しと言っても矢張り嫌なことを言われると人間ですからね〜ハードだと思います。
こんばんは〜〜〜
アンさんのお嬢様もお孫さんもアンさんの手料理を楽しみにしていますね!
アンさんのご両親はアンさん家族が帰ってくるのが楽しみでしょうね〜。 私も時々孫を見ながら私の両親が生きていたら息子の子供に会えたのにね〜って思うと悲しくなるんですよ。 両親は息子を一番可愛がっていましたから。
母は自分で変だと気が付いて2度くらい脳外科に行って脳のCTを受けています。確か最初の時が2001年でした。 そして2002年に二回目。 2001年の結果は正常。2回目の時は脳がちょっと萎縮していると言われました。姉と父が母の認知症を認めたのは2003年なんです。でも急降下したのは父が亡くなったのがきっかけでしたね。腰の骨折で寝たきりになる方はアメリカでも多いです。転ぶのは怖いですね。
83歳! 私、それまであと20年ですね。 長いようであっという間ですよね。
私もみいぼさんのように思う時があります。未だ63歳ですから(11月で64ですけど)もし83歳だったら風邪をひいただけでこれで終わりかもって気弱になりそうです。今でも既にそんな傾向がありますから。肺が悪いので肺の辺りが痛くなると きたかぁ〜とか これで終わりか〜って思ってしまうんですよ。損な性格。
遠くアメリカまで来てしまったという負い目があって両親にはさびしい思いをさせたくないと思って毎日1日中Skypeをオンにして鹿児島の様子を監視していましたよ。叔父達が遊びに来ると一緒に会話をしたりとか。 ビデオを付いていたし本当に毎日生活をともにしているようでした。
そうですね!残り少ない人生、皆と仲良く楽しく生きたいですよね。
母は娘の優しさも利用するようになり、祖母や父と母が喧嘩していると、母は必ず「この子は感受性が強いから今何が起こってるかわかってるから!」と祖母に言って祖母を黙らせたりしていました。
娘は目の前で大人が暴れてけんかをしているのが怖くて泣くのは当たり前です。
娘の気持ちを利用する言葉にも私の中で我慢の糸が切れた要因でした。
私と主人は娘が生まれて以来喧嘩をしたことがないので、娘には怒鳴りあいが恐ろしくてびっくりしたんだと思います。
すぐに怒鳴り怒る父と、気に入らないことがあると泣き叫ぶ母、母を溺愛する祖母。けして理解しあうことは死ぬまで無いようです。
私はこの輪にいつのまにか入れられていました。
抜け出すことは難しいことですが、ノンノンさんのお話を聞いて娘でなくとも、自分で「鍵」をかけることも大事だと強く思いました。
ありがとうございます。
メニエールになったのも、なぜかは分かってないようです。
メニエールで寝込むのも許さない母なので、「久しぶりに体調がよくて朝きちんと起きることができた」と話すと、「早く起きたなら何か作って持ってこい」と言われた時は、もう体調の話はするまいと強く思いました。
私のいやがることを、私が悲しい顔をするまで繰り返し伝えてきます。
悲しい顔をしたあとの顔をみてニコニコしているんです。
私はいやがることを母に言っていたのだろうか?だから私も言われているのだろうか?と自分を振り返り、父にたずねました。
答えは「言っていない。母流の楽しみの一つ」で終わりました。
あまりに辛くて、自宅に帰宅し子供たちを寝かしつけ、飲まないお酒を一気に飲み干し、忘れてしまおうと思いましたが、次の日辛いだけでした。
主人が話をきちんと聞いてくれるので、解決は出来ませんが夫婦で協力しあい生きていこうと決め、チブリッツさんのブログにコメントしてしまいました。
思いがけず優しいコメントを頂けて本当にびっくりし、うれしかったです。
ありがとうございました。
すいません、書いたつもりでお名前を書いていませんでした。
母は昔から私に物凄く固執していました。
高校から給食はなくなったので、お弁当は自分で毎日作り出掛けました。
結婚式にも友達は二人しか呼べず、あとは全て母の選んだ知り合いです。
「私の言う通りに生きていないと痛い目にあう。私の言う通り」が結婚するまで言われていました。
水銀が多いと人が変わるのですか!
祖母は公害の影響で水銀を多く摂取しています。
祖母も昔から変わらず怖いです。
チブリッツさん、皆さんの温かいコメントで強くなろう!と思いました!ありがとうございます(*^^*)
私がアメリカに来るとは思ってはいなかったのでしょうね。
ずっと私が母の近くにいると思っていたと。(私が独身でいるか結婚するかは別とした)
だからアメリカに私が行ったときはすごく精神的ショックだったようです。(それもかなりあとになって聞かさせました)
私は年に何回かいけるのは経済的なことそれに主人が黙って行かせてくれることに感謝しています。
言われるとおり行きたくてもいけない人は多いとそう思います。
私がこのように行く理由のひとつはなくなった父には何もして上げらリなかったのです。
私の両親は姉に虐待を受けていたのです。
それが私は知らなかったのです。
なんとなく何かおかしいかなと思ったこともあるのですけど私には良くわからなかったのです。
両親はそんなことを私には言わなかったのです。
父は病院で亡くなったのですけど自分の体が自由にならなくなってもっとどんな虐待を受けるのかを思ったとき家に帰りたくなかったと今思うのです。
自分で生きたい気があればもしかして助かりいえにかえれたかもしれません。
でも父はそれを望まなかったと思うのです。
私はそのことで何年も自分の弱さで悩んだこともありました。
だから今は父にできなかった分まで母にしたいと思う気持ちで日本に行くのです。
今の日本ではまだ高齢者に対しての虐待を罰する法律は残念ながらないのです。
日本では身内に、子供に虐待させている親が多いと聞いています。
とても悲しいことです。
親から強く当たられていやな思いをしてもそれを聞いてくれて支えてくれるご主人がそばにいるということは心が癒させると思います。
今与えられているしあわせを大切にして欲しいなと思います。
いやなことが続いても一生続くことはないと思うのです。
だから今ふみちさんにはやさしいご主人とお子さんが与えられたのではないかと思うです。
ふみちさんのお母様のことも考えてみました。
どのような家庭に育ったのかなと。。。
もしかして愛情のない子供時代をすごさせたのかなと思ったのです。
親から虐待を受けたり愛情のない家にそだったりと。。。
お母様自身がどのように育ったかによってもそれをひきついて自分の子供にしている人もいると思うです。
反面教師になる人もいれば親と同じこともする人もいると思うです。
またお父様も我慢してといわれたとか。
お父様もなんとなく遠ざかっている気がしました。
愛という言葉がない中で生活をしている気がしました。
今は暖かい家庭を築いているようなので大切にしてくださいね。
そしてふみちさんのところで一線を引いてそして新しい人生を築いていって欲しいです。
母は一人娘で、裕福な家庭に育ちました。
短大まで出ると、父と卒業前に駆け落ち。
私が生まれる前に、経済的に行き詰まり実家へ家族で帰ってきました。
その後はまた裕福で、私が生まれてからは祖父母が子供のお世話をし、母は習い事に行っていました。
一歩外へ出ると、母は皆から「しっかりものの一人娘」
私が母のことを保育園からの旧友に相談したときは、本当にびっくりされました。
誰も気がつきません。
父も所謂マスオさんで生活していますので母に言えないことも理解しています。
なぜ私はこんなことをされるのか日々自問自答してきましたが、答えはきっと母の言葉にあります。
「醜いから」これが本当に許せないんだと思います。
何度も切りはなそうと考えて生きてきましたが、病気を機に離れる決心がつきました。
家庭第一に生きていきます。
ありがとうございます。
エゲレスの子のランチですか?しらん。実は全く見た事ないんですよ、この学校は寄宿舎の生徒が多いからどんな時も学校からランチが出るんです。あの何でも全て親の差し入れで成り立ってたCAの公立小学校が懐かしいですね〜いかにも親してるって感じで毎日楽しかったです。
ふみちさん、小説よりも過酷な状況にちょっと吃驚、筆も止まってしまっていましたが、あなたエライ! そんな酷い状況下で捻るのは誰にでもできるけど、貴方の様に踏まれ続けても負けないで真っ直ぐ上を向いて人生を頑張れる人は少ないですよ。母親から愛を受けていないのにご主人やお子さんに与える愛をお持ちだなんて、なんて素晴らしいんでしょ!貴方の様に強くて前向きな方大好きです。きっと神様に特別に愛された方なんですね、貴方だからこそ心が病んでいる(コレかなり当たっている)お母様を委ねられたのでしょう。これからは今までの分、きっと人より沢山の恵みに満ちた幸せな人生が待ってると信じます、応援してますよ〜。
読んできて お母さんの背景には祖母さんから受けた心の傷があり、そのトラウマ解消で 娘であるふみちさんを支配してしまうのでしょうかと 想います。
あなたのお母さんですからこんな風なことを聞かされるは 悲しいでしょうね。お母さんだって 本当は 祖母さんから優しくされたかったですよね。 お父さんも 一緒に暮らされていて 我慢しているのですね。
辛い場面からは 離れることが 大切だとききます。 学校なのいじめも 無理をして登校しないで場から離れることと 聞きます。
そして ふみちさんが 体を丈夫に楽しく暮らされることですね。結婚して家庭を築いたことは もうあなたは 親から支配されないところにあることを 意識してくださいね。 ご両親にも 言葉はきっぱりとした丁寧な話し方とプラスな話をされて 相手にもうこどもは 自立したのだということを 感じさせていってほしいです。
お母さんがカウンセリングを受けられないのであれば あなた自身が どこかで 相談してご自分を守るということも 具体的にどうしたらいいのか 助けになるでしょうね。 健康で生き生きしていれば もうお母さんも意地悪はできなくなりますよ。そして思いつめないことですね。
ストレスを持たないことは難しいですが ストレスをためない工夫を実行してみると なんだ、自分にもできると 分かりますよ。
お母さんから あなたに”いままでごめんね”と いつか言ってくれるのを願っています。 若いあなたがここに書き込んだのは とてもいいことですね。
チラシ寿司で、今は亡き祖母と母のやり取りを思い出しました。
祖母の103の誕生日に、
母は祖母の好物の穴子が入った
散らし寿司を作ったのですが、
もう祖母には、食べる力があまりありませんでした。
母の介助で2~3口食べたものの、
もう喉を通らなくなりました。
すると、祖母は母に、
「ごめんね、折角作って貰ったけど、
お母ちゃま、もう食べられないの、
ごめんね、Sちゃん、ごめんなさい」
と申し訳なさそうに謝っていました。
母は涙目になって、
「大丈夫よ、気になんてしてないわ。
頑張って長生きしてね!」と返していました。
私は、既に103なのに、長生きしてねと言う、
母の言葉に笑ってしまいました。
この3ヶ月後に老衰で他界しました。
今思うと、いくつになっても
母は母だし、娘は娘なんだと思います。
あの時笑ってしまった事が悔やまれてなりません。
長文失礼しましたm(_ _)m
ふみちさん、お母様に「醜い」と言われたとのことですが、そういう話もよく聞きます。
でも、可愛い方たちなんです。なのに親御さんに「可愛くない」と言われてきたので自分でも「私は可愛くない」と思い込んでいらっしゃる。他の人に「可愛いじゃない?」って言われることがあっても、ご両親に言われているものですから、断固として(笑)「これはお世辞に違いない!」と思ったりされる。(ふみちさんもありませんか? 可愛いって言われたこと。)
ふみちさんにお目にかかったことがないので、どれぐらい素敵で可愛い方なのかはわからないですけど、わかるのは、お母様がふみちさんにそうおっしゃったのは、お母様が幸せじゃないからです。お話を伺っていると、お母様は困ったことがあったとき、お母様のお母様、ふみちさんのお父様、ふみちさんなど「他の人」に助けてもらうことで対処されてきたのではないかと思います。でも、自分自身の「心の」努力なしに幸せになれる人はいないと思います。お母様はその努力をされていません。
ね、ふみちさん、お嬢さんや優しいだんな様との暖かい家庭で幸せになってください。
(何度にもなってしまったので、どうぞお返事はなしで。)
むべさん、はらさん
優しいお言葉ありがとうございます。
5年間床についていましたので、悔いなく精いっぱい看病出来ました。
むべさんもはらさんも、既にご両親を亡くされておられたのですね。
母は95歳でしたので歳に不足はありません 冷静に見送る事が出来ました。
ふみちさん
ご苦労なさっているお話を伺って驚愕しています。
未だ幼いお子さんがいらしてご両親を看られて居てさぞかし大変でしょうが、あなたの事は周りの皆さんが見ておられます決して屈せる事無くお過ごし下さい。そして思い切ってご親戚の方にでもご相談なさって見ては如何でしょうか。
お母様は病んで居られますよ。
はらさん
チョット打ち明け話し。
母が息を引き取った時、マザコン男の兄が医者に「受け入れられない!」と詰め寄ったのですよ。
ほんに男ってアンポンタン!
あらゆる手を尽くされて長生きできたのに未だデン生きとけと言うとよ。
昨日 ベッドで寝ている夫に 思わず口に出た言葉、
”あなたは コマンダー、口うるさいコマンダー、 あたしは ソルジャー、一人だけのソルジャー、目がまわるぅ〜”
夫は 図星なので 声を出して笑っていましたよ。
今から ご飯とお味噌汁を炊きたいです。 パンばかりでは飽きてしまいます。 まさかのときは おにぎりですよ。 そして早く寝ます。 誓いさん うちの人も いまだに両親のこととなると涙目になります。 兄弟がいないので、両親が恋しいのでしょうね。そういう気持ちはそっとしておきますが、 でもこの世は 苦しみもあるけど、生きる喜びだってあるのですから 毎日という日々、時間をより良く使いたいものです。
おはようございます!
凄い!85歳までお料理もですか! そんなお母様をみていると自分もそこまでできると思って心強くなりますね。
そうですか一昨日お亡くなりになったのですか。 95歳 本当に天寿を全うしてですね。 でも幾つであっても母親をなくす気持ちは娘には特別なものがあります。 心からお悔やみ申し上げます。 10年 おばあさんをしている時期があったのですね。 私の母の場合は悪くなるのが早く79歳でしたので本当におばあさんらしくなった姿というのを見ないで逝ってしまったように思います。 誓いの言葉さん美味しい物を召し上がって元気を出してくださいね!
夕べのニュースではウォール街も洪水地域なので取引場所を移動するとか。 ニューヨークもハリケーンコースになっているのですね。
むべさんのお話をきくと丸で鹿児島の生活を思い出しました。毎夏何度も台風がきましたから、子供達と帰省している時も台風後片付けが皆で大変でした。
デスオーガナイズと言えば私もむべさんに負けません。 結局寄付は自分のものだけを処分になるんですよね。 今 むべさんのコメントはアメリカ時間で何時だったのだろうと思って計算中。これ今朝じゃないですよね。 昨日のお昼?
年をとるって悲しいですよね。 自分が家族の負担になることは他の人よりも自分が一番辛いのではないかと思いますけど自分の力ではどうにもならないし。 これから近寄ってくる「老」をどのように迎えるか…あまり考えないことにしています。
いつの間にか段々できることが減っていくってさびしいですよね。そうですね〜皆同じ気持ちですね。 年をとるほうも、看るほうも。
52歳ってつまりご両親よりも早く亡くなられたのですね。 それが一番悲しいです。順番がありますから。自分がおやですから そういうお話を聞くだけで涙がでてしまいます。 私はアメリカに住むようになったときには親の介護はどうしょうなんて考えもしませんでした。当時両親は40代で元気だったし。 だけど看たいという気持ちは自然に出てくるものなんだなぁって思いました。認知症は神様が下さるプレゼントですか。 右にリンクをはっているSuriburiさんのブログを読んでいるのですが認知症の方の感情はそのまま残っているんですね。 私は最後母がどのような気持ちでいたのか知りたくてSuriburiさんのブログを読んでいます。私がわからないようでしたけど、本当は分かっていたのではと思ったりします。
サニーサイドアップさんのご両親もお幸せですね。
「孫(私の子供達)の食べたいものよりも、まず私の食べたいものを聞いてくれます。」永遠に母親の気持ちなのでしょうね〜。
今度は母だけ褒めたいです。。。ちょっとふきだしてしまいました。 お母様可愛らしいですね!
まめ好きさんのお母様は今70代ですか。 そういうお話をきくと未だ暫く私もできそうって思って元気をもらいます!
そうそう、私もあの時もっとこういえば良かった!って思った時のことが未だ忘れられないのですよ。自分の心の中に後悔があるのですね。
お母様のお話を読むとふみちさんが幼い頃から始まっていたようですね。
水銀とは関係ないかもですね。
血を分けた子にこのような酷い事をいうお母様の気持ちが計り知れません。
切り離す…自分の気持ちに整理ができてよかったですね。 先ずは自分の気持ちを大事にして、自分が幸せであることが一番です。そしてご実家から暫く離れるのもいいでしょうね。 そしていつかお母様に今まで辛かったことを全てお話することもいいかもです。でも言っても分かってくれるかどうかはわかりませんがふみちさんの気持ちが軽くなるのなら。
本当にご主人様が優しい方でよかったですね。 大工仕事も一緒。微笑ましいです。何時までもその幸せを大事にしてください。
Kさんが誰だかコメントを読んでも分かりませんって! 本文を読まなくちゃ!
Kさんはね 当時お手伝いに来てくださった方です。あれから随分長い間お世話になりました。両親がいなくなった後も家のチェックをお願いしていました。そろそろお手紙出さなくちゃ〜。
いつもご訪問有難うございます。
ショウコさんのコメントを読んで涙が出てしまいました。103歳のお誕生日にそんな母娘との愛情あふれる会話ってあるでしょうか。 103歳になっても娘を思う母親でいたいと思いました。
素敵なお話を有難うございます。
遠く離れて暮らしていたご両親への、Chiblitsさんの想いが綴られたストーリーにいつも涙しています。今はとても元気な 私の母も年をとるのだなと考えながらこのお話を読んでいたら、やはり涙がでていました。実家に帰る時には、両親との時間を大切に過ごさないといけないですね。
いつも素敵なお話をシェアしてくださって、ありがとうございます。これからも楽しみに読ませていただきます☆
実家で、兄家族と暮らしてます。(孫 14歳、11歳、4歳、2歳)
総勢8人家族です。
孫育てと家事をお嫁さんと協力してやってます。(ときどき母の比重が高くなるけど。笑)
「もう、お母さんやんだは〜。(いやよ〜。)」などとグチりながらも、孫の相手してます。
だから若くいられるのかもしれませんが。
でも、夏に腰の手術をしました。
手術前に電話をくれて、自分の体の方が大変なのに、「体大丈夫が?」って私の方を心配していました。
もう、お母さんはどこまでも『母親』で、私なんか到底追いつけないなって思って泣けちゃいました。
母の愛を順送りに子供に伝えるのが、私の役目なんだと思いました。
「神様に特別に愛された方」の言葉にドキッとしました。
というのも私は母に心の中で憎しみの感情を抱く時、「私はきっと死んだら地獄にいくんだろうな。」と何度も思っていました。
クリスチャンではないのですが、何となく私は死んだら地獄行きと思ってしまいます。
人を呪わば穴二つと言いますので、心で母を憎むことでとても深い罪を犯していると考えてしまいます。
この感情がなくなることはあるのか・・・日々自問自答しています。
ありがとうございます。
がんばります!!
実はいつも、母と同じ年代の方たちは毎日どのような生活をしているのだろう?家庭は?子供は?とういう疑問がすごくあり、チブリッツさんのブログを拝見するきっかけにもなりました。
お互いのコメントでのやりとりも楽しそうで、私は皆さんの子供さんたちとどこが違うのだろう?みなさん、親と離れてどういった生活をしているのだろう?とそういう気持ちもありました。
そこで母との違いをあまりに見せ付けられ、余計にショックを受けることもしばしば・・・
それと同時にものすごい怒りが自分を支配して納めるのにとても苦労したことがあります。
これがストレスになるんですよね。
そして病気につながるんですね。
自分の気持ちを切り替えて、楽しいことを考えて生きていきたいと思います!!
ありがとうございます。
沢山のコメント本当にありがとうございます。
母のことを最初に書いたとき、少し後悔しました。
今まで親戚や父、兄に相談しても誰もが「我慢して、お母さんはあんたを思っていてるんだから」といわれてきましたので、きっと私のコメントは誰にも理解してもらえず、「危ない女のコメント」になってしまうんだろうな。と思ってしまいました。
主人だけが唯一理解してくれていたので、私の気持ちのバランスは取れているのだと思います。
自分のことを大事にし、家族を大事に守って生きたいと思います。
本当にありがとうございます。
お母様、お悔やみ申し上げます。
とても不謹慎ですがお兄様とお医者様の間の話にムムっやはり男の人はいつまでも子供なんだな?なんてことを思ってしまいました。すいません。
親戚は祖父の無くなった時遺産相続で醜い争いが生じ数えるほどしかいません。もう80過ぎの高齢の者ばかりなんで、相談する親戚がいないんです。もし相談しても、私がうそを付いていると言われてお騒がせしました。で終わってしまうんだと思います。
何度も母から離れ、すると母が執拗に精神的に追いかけてきて、また実家の世話に戻りと何度も繰り返してきました。
ですがメニエールがつらく本当に自分の家庭のことで精一杯になってしまいました。
これがいいチャンスなのだと自分に思い聞かせ、生活していこうと思っています。
ありがとうございます!!
誓いさん
ブッハハハ!お兄様、「受け入れられない!」ってそぎゃンこつ言われてもね〜(爆)そら、先生よりお母様の方がたまがんなはったよ!そげん愛されて誓いさんのお母様は本当に幸せ者ですね。
ふみちさん
「ドキッ!」として下さって有難う〜(笑)本当に神様は自分の一人子を捧げるほどに貴方のことを愛していらっしゃいますよ!聖書に「全て重荷をおうて苦労している者は私のもとに来なさい、あなたがたを休ませてあげよう」と書いてあります。人間は許す事が一番難しくてできないんです、でも「人にはできないが神にはできる」とはっきり書いてあります。許す事によって自分の心が解放されて自由になりますよ。憎しみが心に巣を作ってしまうと体まで蝕まれますから、折角此処まで前向きに頑張ってこられたふみちさんには是非心も開放されて幸せな人生を送って欲しいです。お近くに教会があったら是非気軽に行って、全て牧師先生に話して祈ってもらわれる様にお願いします、私も遠くからお祈りしてますよ〜。
今頃は先に逝った父と合えて喜んでいると思います。
ふみちさん
ご親戚はご高齢の方が多いのですね。
お辛いでしょうが可愛いお子さんと優しいご主人様が支えて下さっているという事ですからお子さんの成長を楽しみにお過ごしになって下さい。
ここにいらっしゃる皆さんと共にふみちさんの幸せを祈っています。
たくさんの人に送られての羽田出発、でも暮れで閑散としている機内では 若くない母を一人おいてきてしまったと思うと涙が止まりませんでした。 そして 結婚してからも
時々 母の夢を見ては 目が覚め、ぽろぽろ、、、いつも 母のことが案じられてなりませんでした。
いろんなことがあって 最後は 晩年の母をカナダに連れてきてしまったのですよ。 自分の思い込みで
努力をしたつもりでも 母が亡くなって、自分も歳をとるとともに 理解できることもあったりで 悔いは残るものですね。