奄美大島在住のはつえさんからのお願いです。
世界自然遺産にも登録されようというこの島(芦徳)の小さな集落に突然マグロ養殖場建設計画が持ち上がっています。 トヨタグループの豊田通商という大会社ですが、住民には何も知らされないまま漁協と話をすすめていたのです。 小さな集落民はこぞって反対表明をし、署名活動を行っています。 権力も財力も持たない住民には署名活動だけが頼みの綱です。 何故反対するのか。。。こちらのサイトをご覧下さい。
署名用紙ダウンロード http://ashitoku.com/tuna/signature.form.pdf
長男の名前は赤色
もう1年早く会えばよかった。去年の11月に23年ぶりにやっと日本に帰って、91歳になるお袋に会った。玄関に上がると、思わず急ぎ足になった。お袋のいるコタツの部屋だ。コタツに入っているお袋を抱きかかえるようにして、立たせて抱きついた。小さいお袋になっている。小さいお袋の身体と温もりを抱きしめた。「お茶を飲むか、何か食べるか」と、聞いてくれる。私が日本に住んでいて、いつも会っているかのような表情だ。23年ぶりに自分の長男と会う感激が顔に一つも現れていない。よく見ると、少しうつろな目をしている。これが初期のモウロクの顔つきなのだろうか。
胸が詰まりそうだった。 傍に次男の英数、3男の道雄、4男の秀行が立って、私とお袋の感激の対面を涙顔で見守っていた。私は3人の大の男の涙顔を見た途端に、どっと涙がふきだした。「長男の俺が、お袋を捨てて、すまなんだーーーーー。」後はもう言葉にならなかった。長男と言う言葉の重さに耐えかねた男泣きだった。こんな私の男泣きは30年前にも1度あった。31歳の時に南米のパラグアイへ移民した時だった。その時もやはり、長男と言う言葉に耐えかねての男泣きだった。
コタツの横に敷いてある敷きっぱなしの布団の枕元には、私が毎月1回、アメリカからフりムン徳さん応援団の皆さんに送っている、「フリムン徳さんアメリカ便り」が何枚も散らばっていた。その何枚かを拾って並べようとしたら、そこに現れたのは私の出版した本「フりムン徳さんの波瀾万丈記」だった。紫色の表紙の私の本がお袋の枕元にお袋と寝ていた。何度も読んだと見えて、ぺージがバサバサになっていた。耳が遠くなり、私と電話が通じない代わりに、私の本やアメリカ便りと話していたんだ。
「オー、お母さんよ、お母さんよ」。これが泣かずにおれるかいな。お袋に心臓を握られたような痛みが走った。私は、こんなに私を思っているお袋に、どんな償いをしたらいいのだろうか。よう、涙を流させるお袋や。1年前まで、、私はアメリカから日本のお袋と頻繁に電話をしていた。何回も大きな声で、同じことを言っても「聞こえない、よく聞こえない」と言うようになってからは面倒になって、あまり電話をしなかった。
でも気になって、 時々お袋と一緒にいる弟や大阪の妹のみち子に電話でおふくろの様子を聞いていた。「元気、元気、大丈夫。字を書くのは面倒みたいで、あまり手紙は書かないが、読むのは新聞も手紙も 、隅から隅まで読む」。と言う。だから私は「フリムン徳さんのアメリカ便り」を毎月送っている。 故郷喜界島の風習で、着いたその日に墓参りをしたらいけない。次の日、二人の弟と墓参りに行った。お袋も誘ったが「しんどい、あんたらだけ 行きなさい」という。つい半年前までは墓参りは絶対に欠かさなかったと言う。「もう1年早く来たら、元気なお袋と一緒に親父の墓参りが出来たのに」と悔しさがこみ上げてくる。親は歳をとる、いつまでも元気じゃないんだ。そのうち、そのうちと思っているうちに自分も歳をとる。親孝行と言う言葉の前には「元気なうちに」と言う言葉がどうしてもいるようだ。
私はお袋の面倒を見なければならない長男であった。その私は親父が死んで、一周己を済ませたら、パラグアイ 移民を思い立った。商売で儲けた金で、私は貸家と墓地を買っていた。貸家の収入で、お袋の生活費を確保し、墓地に木の墓標を立て、二人の弟と妹にお袋を頼んで、、私は嫁はんと1歳半の娘、すぐ下の弟と4人パラグアイへ移民した。親父のいないお袋と、弟妹たちを残して長男が外国へ移民するのは常識では考えられないことだった。「まさに、法律違反」である。借家を持っていたのが悪かったのである。 もし、貸家の収入がなかったら、移民なんかしていなかったと思う。余分なものを持てば余分な夢を持つ。
身を切られる思いというのを体験したのはその時だった。でも、お袋は身を切られるどころか、身を切り取られる思いだったろうと、今63歳の歳になり、そして、自分が病気で倒れてやっとわかった。 その私が買った墓地には立派な御影石の墓が立っていた。それには長男の私があった。お袋がへそくりで建てたという。「お袋のへそくりで」と聞いて、また涙が出るばかり。私の涙はまだ続く。墓石の横に、大きな字で「上園田徳市建之」と彫ってあった。「徳市」の2字だけが赤色で染めてある。本人が死んだら赤字を 黒字に変えるのだそうだ。私はまだ生きている「徳市」の赤字を見て、「徳市、お前は長男だよ、この墓に一緒に入るんだよ」と言われているようであった。91歳になるお 袋の私への人生最後の贈り物のように思えた。 長男と言う言葉は岩よりも大きい、岩よりも重たい。捨てられてもまだ私を長男と信じるお袋の思いはダイヤモンドより硬い。 7-19-2006
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
最後までお読みくださり有難うございました。 そしていつも沢山の応援を有難うございます。
コメント
コメント一覧 (15)
長男でも次男でもそれぞれ自分のしたいことはする…それでいいと思います。そういう徳さんのことをお母さんはきっとわかってますよ。だって自分で生んだ子ですもん。徳さんが元気でやっててくれることが一番お母さんが安心することですよー。
徳さんはお母さんを捨てたと言いますが、お母さんにはそんな気持ちはさらさらないです。色々あっても、年の順でいえば元気で親を見送る……それが一番の親孝行と思いますよ
私は長男じゃないし、そもそも女(次女)なんですが、鹿児島の田舎で育ったせいか、同じようなプレッシャーをずっと感じてきました。海外に住んで自由にやっているように見えて、いつも申し訳ないなーという気持ちがあるのです。徳さんと同じですね。
気持ちが揺り動かされているんですけど、かえって
コメントできないことが多かったです。
次女だけど「長男」、妹だけど「親」の役目を背負った
私は、同じカリフォルニアに住み徳さんの気持ちとても
良く分かります。
去年モントレーを12年ぶりに訪ねて、車窓を流れる
景色を見ながら徳さんとchiblitsさんのことを考えてい
ました。
話は変わりますが、
今度、鹿児島に帰られた時は叔父様と一緒に『桜島溶岩なぎさ公園足湯』などいかがでしょうか?私はまだ行った事ないのですが、一緒に足湯に入ってゆったり出来そうなので、次に帰省したら親を連れて是非行ってみたいと思っています
桜島フェリーで渡ってスグのようです~ご参考までに…
町議会は賛成6反対1保留3で押し切るつもりのようです。
ニヌハ名で応援ブログを掲載しています。
前回はURLが記入できなかったのですが、ニヌハは沖縄の古い言葉で(子の方向にある星・・・北極星のことです・・・・動かない ぶれない感性)が信条です
ご迷惑でなければ、引き続き よろしくお願い申し上げます。
なるほど、なるほど、そうか、そうか、そうや、そうや、それでよかったんか、と肩から長男の重荷を下ろしてほっとした気持ちになりました。私のお袋の口から、聞いているような言葉です。
黄色ツバメさんとお袋の口元が目に浮かんできました。
「母親の思い」という題名がぴったりです。
「長男でも次男でもそれぞれ自分のしたいことはする…それでいいと思います。そういう徳さんのことをお母さんはきっとわかってますよ。だって自分で生んだ子ですもん。徳さんが元気でやっててくれることが一番お母さんが安心することですよー。
徳さんはお母さんを捨てたと言いますが、お母さんにはそんな気持ちはさらさらないです。色々あっても、年の順でいえば元気で親を見送る……それが一番の親孝行と思いますよ」
もう一度、おおきに、有難うございます。
コメント、おおきに、有難うございます。
私と同じ思いで海外生活しているぽちさん、身近な人になってきました。今後とも仲良くさせてください。
コメント、おおきに、有難うございます。
次女だけど「長男」、妹だけど「親」の役目を背負ったMorning Beautyさん、大変苦労なさったと思います。お疲れ様です。同情します。
親あっての子供ですから、子供は親を思うのは当たり前です。
私の家はfreeway101のsan antonio lakeで降りて18をサンアントニオレイクヘ向かって10分のところです、並ぶメールボックスの山の中腹を見れば、白い家がぽつんと1軒だけ建っています。お寄りください。
人と人の繋がりが幸福への近道だと思っています。
4年ほど前、日本に帰った時に、鹿児島の足湯に足を入れました。「足にもお疲れさん」といわなければと思ったひと時でした。
夫(アメリカ人)に話しましたら、「今度近くに行く時寄らせて頂こうか?」ってニコニコしていました。道順までありがとうございます!
ただ世の中何があるか分かりませんので、安全のためこの道順はコメントから削除して頂いた方が良いのではないでしょうか?ちょっと心配です(^.^;)
Morning Beautyさん、わざわざ、ご注意有難うございます。
こんなところで気が抜けているから、私はフリムンでございます。2日間の天国旅行も経験しているから、この世の中の怖さを忘れてしまったようです。何も盗られる物もありませんし、この辺の山の中の村ではたった1家族の日本人夫婦と知れ渡っていますから、もう、あるがままに、なるがままに、逆らわず、何が起ころうとも怖がらず、残り少ない楽しい人生と思いながら生きたいと思います。
私の家はフリムン商店と思っているから、誰に知られてもいいと思っているのです。本当に、ご注意有難うございました。
その後体調は如何ですか?
フリムンさんのお母様や実家(先祖)に対する熱い思いに、私たちが心を揺さ振られるのは、現代の生活ではすっかり忘れ去られた昔の良い日本人の考えが、ヒシヒシと伝わってくるからだと思います。
フリムンさん、どうぞこれからも有り難いエッセーを宜しくお願いします。
また、奄美大島のはつえさんの発信下さった美しい島での開発のお話し・・。早速、知り合いのママさんに伝えました。彼女は同じ奄美出身で、東京で活躍されている方です。 美しい自然が利権の為に壊されてしまう事は、残念です。
友人に送ってもらったカレンダーを 台所に掛けてあります。
1月のところに、書いてある言葉は
”家族は、私たちを人生の荒波から守り、様々な素晴らしいことを
実現させてくれる。”
Our family is the place that protects us from the storms of life,the place where we can make wonderful things happen.
子供たちが 家庭で学び、育っていけるよう、 家族のありかたを
思います。
昨日 私の鉢に、クロッカスの白い花が一輪だけ 開花しました。
夫と二人で 花を見て 感嘆しました。
コメント、おおきに、有難うございます。
昔の喜界島では長男は「家の跡を継ぐ」という、目に見えない、強い、重たい、鉄の鎖で繋がれていたようです。「あの家は長男が跡をついでいない」という言葉は、何かを意味していました。
コメント、おおきに、有難うございます。
私は年老いたお袋の写真をコンピューターの背景画面に入れて、毎日、眺めています。
それから、ウヤフジ達と、世話になり、亡くなった人達の写真は小さな額に入れ、ベッドの横に置き、朝晩、拝んでいます。