核融合科学研究所が計画する重水素実験に反対する。
岐阜県土岐市の方達からのお願いと拡散希望が届きました。
岐阜県内で今月、核融合反応が起きる実験への同意書の調印が行われます。
現在使われている核分裂の発電施設から発生する中性子の10倍も高いエネルギーの中性子が出ることを防ぐ方法が全くない危険な実験です。
ノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんも、実験反対 毎日ニュース
物理学者の槌田敦氏からの異論 ヤフーニュース
お願い:「核融合」施設実験に反発する声を送る。
岐阜県知事に声を送るサイト

舞踊団「シェン・ユン」の公演を見て
堀ねずみ教室が終わった後
お隣さんはじいさんに今サンフランシスコで公演中の
舞踊団「シェン・ユン・パフォーミング・アーツ」の踊りを見に行こう言い出して
さっと入場券も手配して下さったので
今日はお隣さんとサンフランシスコを散策して
夜は舞踊団「シェン・ユン」の公演を見てきました。
(じいさんに聞いてくれたのでじいさんを説得する手間が省けました)
踊り子達のインタビューを見て思い出す事があります。
私は6歳の頃まで父の実家が商売をしていたので
祖父母やいとこ達 住み込みの女中さんや
丁稚奉公さん達と雑居生活をしておりました。
このお話は少しここに書いたことがあります。
鹿児島はとても封建的で
祖父母とその息子3人は(つまり私の伯父二人と父)の5人はお座敷で食事をし
私 いとこ達 母 伯母 使用人は土間の台所に繋がる畳の部屋だったので
父と食事をすることはありませんでした。
私達子供と母達がお座敷に呼ばれるのは夕食の後です。
何が始まるのかというと子供に歌わせたり
躍らせたりするミニ演芸会です。
歌や踊りの好きな同じ年のいとこは
この時間を楽しみにしていたくらいですが
私は一日で一番嫌な時でした。
家族であろうと人の前で歌ったり踊ったりするなんて!
嬉々として踊るいとこの真似をしながらいつも惨めな思いでした。
母はそんな私を見てバレーを習わせようと思い
私が5歳の時に近くのバレー教室に見学に連れて行ったのです。
そこでは私と同じくらいの年の子が
可愛い衣装を着てバレーの靴を履いて
壁のバーをつかみながらちゃんと体を動かしているのです。
とんでもないと思いました。
先生から何とか話しかけられた記憶がありますが
私はきっと貝のように黙りこくっていたのだと思います。
教室を出て帰る途中 私は嫌だ嫌だと泣き喚き
母はレッスンに行かないなら
この木に縛り付けますと私を脅しました。
私は人目もはばからずに益々大声で泣いたので
結局母はバレーレッスンは諦めてくれました。
それ以来バレーの話は2度と話題になることもなかったのですが
それから20年経って
ふと思いついた事があります。
当時 母は27歳。
名古屋から封建的な鹿児島の大家族にお嫁に来て
朝から女中さんのように働き
そしてとても厳しい姑の下で
相当にストレスの多い生活だったと思います。
そして毎晩 自分の娘は踊りも歌も下手でいとこ達に負けている。
勝気な母にはそれもストレスだったのでしょう。
大泣きをする私を見ている母
今はその時の母の気持ちがわかるようになりました。
20年経て この一件を思い出す時
母に木に縛り付けると言われたことより
そんな事を言わなくてはいけないくらいに
嫁ぎ先で辛い思いをしていた母を想って
可哀想になり泣けてくるのです。
母の鹿児島での前半の生涯はとても悲しいものでした。
そうそう踊り子の話でした!
こういう運動神経や才能は努力だけでなく
生まれて持っているものが大きいのでしょう。
インタビューのダンサー達は幼少の頃からレッスンが楽しかったと言っています。
私はどうひっくりかえっても ダンサーにはなれなかったのですよ。
最後までお読みくださり有難うございました。 そしていつもご訪問と応援をありがとうございます。


コメント
コメント一覧 (44)
お母様のご苦労、お察しします。その時代の女性は強かったと言いますか、強くならざるを得なかったと言いますか、本当に頭が下がります。
私の母の実家も、商売(レース工場)をしていて、住み込みの若い使用人が数人いました。祖母は6人の子供と使用人、主人、姑の毎日の食事作りと生活の世話で、長年大変だったと思います。とても優しい祖母でした。滋賀県だったからか、男女が別の部屋で食事とかではなかったですが、今から思うと、女性の責任と仕事量は並大抵ではなかったでしょうね。
私はその正反対で、アメリカで結婚し、お姑さんもいなければ、回りに家族もいずに自由で楽です。その代わり、大家族の楽しさを子供たちに味あわせてあげられないのが、ちょっぴり残念です。たまに滋賀に帰省すると、子供たちはいとこたち、祖父母、叔父さん叔母さんと遊ぶことができて、とてもうれしそうです。
私の義母が、「その歳になってみないとわからないことがあるのよ。」とよく言うのですが、50を過ぎた今、義母の言葉の意味がわかるようになりました。不遜にも、若い時には聞き流していたのですけれど。
私も、あのときの親の気持ちはこうだったのか、と今になってわかることがありますが、話をしたい両親はすでにいません。順繰りとはいえ、寂しいことですね。
昔の日本の女性は忍耐強かったですよね。家のおばあちゃんは最初の結婚で娘しか産めなかったので姑が娘2人をおばあちゃんの知らない間に里子に出され、離婚して、私のおじいちゃんと結婚しました。私に彼女のした苦労なんて出来ないでしょうね。
家は養子だったので、母は楽をしたと思います。
私はドイツで2年ドイツの両親と暮らしましたが、ドイツのお父さんと喧嘩したり、わがままな娘です。
バレエのレッスン教室があるとは進んでいましたね!私の母はさらに上の世代ですが、バレエなんてやっている子供いなかったと思います。私が子供のときでさえ、周りには教室もなければやっている子もいませんでした。
今は、やっている子供多いですね。
今日、初めて?レモンピールを作ってみましたが、見事に失敗したかも^^
NHKのみんなの料理のレシピを参考にしたんですが、まったくそのとおりにはいかず、べたべたかちかちに。さきほど、チブリッツさんのレシピを復習させていただきましたので、また近いうちに。今度は夏みかんで!
ある日、いとこたちの大きな風船で遊んでいて私もそれを手にひらでポンと打ったら松の葉に当たって割れてしまいました。それを見てた母は私を家に連れて帰り思いっきりほおをはりました。もちろん私は泣きました。どうして?わざとなじゃないし、たまたま、松に当たってしまっただけなのに・・・・。
今から考えると、母は本当に母屋に気を使っていたのだと思います。10歳の時、母方の祖父が亡くなり、母の実家に家を建てることになりました。その時、母と母方の祖母は「よかったね、これでかずこちゃん、庭でどんなことして遊んでも自由だね」と言い合ったそうです。
私は子供でしたので、いとこと一緒に育つきゅうくつさは感じませんでしたが、母は本当に苦労したんだと思います。今、このメールを書いていても泣けてきます。
私は今10歳の子供の親になってみていろいろ母と話したいことが一杯あります。でももう母はいません。本当に本当に大切な母でした。
「あなたのことをよく知りたいから、嫌いな食べ物を教えて!」と言われて仲良くできる。と嬉しくなりうなぎが苦手です。と話すと、うなぎやさんに家族で食事にと連れていかれ…到着して笑顔で「嫌いなんでしょう!?」と
子供を産んだ次の日にお祝いにと来て「お前が名前をつけるな!!」とだけ言われ、「わかりました」と言うと「良かった良かった」と帰って行きました(笑)それからも会うたびの嫌がらせ…
なぜこんなに嫌われるのか…謎でした。
そして、チブリッツさんが鹿児島出身と聞いたときは、しばらくblogを見れなくなりました…鹿児島の人が嫌いになったのではなく、怖かったんです。
ある日ゴミを箱一杯に詰めて包装しプレゼントされました。
主人がもう、会うのはやめてしまえといってくれて…冠婚葬祭以外会わず、主人が常に横から離れません(笑)頼んでませんが…
ある日主人がblogを見せてくれました。
義母のblogでした。
義母は、blogでも心が壊れていました…
記事から仲良くするつもりがなかったこともわかり、心が楽になりました
私は、嫌われている理由をずっと求めていました。
主人と結婚したことが理由だとわかりました。
鹿児島怖いは、チブリッツさんの革新的blogで解消されつつあります(笑)
でも、結婚後私は幸せです。
お母様は大変なご苦労をなさったのですね。昔の女性達は今では考えられない様な苦労をした方が多く本当に現代に生きる私達 女性はどんなに幸せか思い知らされます。不思議と私も母の気持ちを思える 考えられる様になってきました。子供の頃は母のせいで貧乏になったとか 今時 家の手伝いや下の子達の面倒をみなきゃならないとか あり得ない‼ なんて母の苦労よりも自分が可哀想に思えたのですが、今あの頃を思うと母は たった1人で誰の助けも借りれずに4人の子供達を育てるために4っつの仕事をかけ持ちし頑張っていたんだ。どんなに苦労をしただろう…私にはとてもできません。時々あの頃を思い出して母と兄妹たちと泣きます。今が幸せなのもあの頃皆がそれぞれに頑張ったからだと母は私達を褒めてくれます。本当に母は素晴らしい女性です!母は偉大です!
じいさんへの説得は必要なかったようで良かったですね(o^^o) 何だか私も踊りの舞台が見たくなって来ました。
年を重ねると言うことはそういうことなのですね。
武士の出だった私の祖父母、私が小さい時にはまだ その身分にこだわっていた家風を感じました。男尊女卑の具体例としては 玄関に女物の履き物を置くなと、祖父が言ってました。まだ小さいわたしでしたが、反発を覚えましたね。私の両親になると二人とも昭和の生まれ、新しい時代に生きていると言うことを強く感じて家族作りをしていたような気がします。
chiblitsさんのお話は、忘れていたことを思い起こすきっかけになることが多々あります。ありがとう。記憶力の悪い私も、きっかけがあれば昔の事を思い出すものだと、妙に関心してます(^^)
ふみちさんの鹿児島人恐怖には、鹿児島出身の私としては、申し訳ない思いで一杯です。思いやりのある暖かい心の鹿児島人もたくさんいますので そのような鹿児島人にいつか接する事で 鹿児島人恐怖を払拭できますように、、、
大人が酔うと歌えとか言われて逃げていました。
そのかわり踊るのが好きで、農協婦人部の盆踊りの練習には母と一緒に出かけていましたって。
母にとってもいい息抜きのようでした。
踊り子さん達は、今現在の努力の集大成があるので過去の辛かった部分も楽しい思い出になっているのかなと思いました。
私の子供の時も大家族でしたので母は常に祖母の視線を気にしながらお伺いを立てつつ生活していました。
すぐ傍には叔母や叔父達も住んでいましたので大変な苦労だったに違いありません。
歌や踊りが好きな人は自然に体が動き出すと言う人もいるくらいですから天性のものでしょうね。
気候が良くなって芸能や芸術性に触れてみるのも良いですね。
鹿児島の方も皆さん同じじゃないですよね。私も頭ではわかってるんです(*^^*)
主人の様にやさしい人を産み育て上げた義両親です
本当に今でも仲良くしたい気持ちが残ってます。
一方通行で、無理なんですが。
ボケて、介護が必要になったら、お手伝いさんのふりをして身の回りの世話をしたいと思っています♪それまで待ちます
チビリッツさん、すみません。
ご年配の方なのかなと思いながらコメント読ませていただいてたら、お義母さまがブログをやられてるっていうので、そんな80とかの方じゃないと思い、そうしたらふみちさんもそんなにご年配じゃないと感じて、お義母さまのお話があまりにもひどくて・・。びっくりしてます。
お子さまの名前も結局お義母さまが決めてしまわれたのですか。
ぼけて介護が必要になったらお手伝いさんのふりをして身の回りのお世話になさりたいなんて本当にふみちさん、美しい心を持っていてご尊敬します。心が洗われました。
バレーをその頃から習ってらしたら今頃は又違った人生だったでしょうね?私子供の頃は遊ぶのが忙しいからどんな習い事も全て嫌でしたけど、お仕事を始めてからはお料理・社交ダンス・生け花・油絵と週4日も習い事三昧でした。でもバレーに興味はチラとも無かったですね、所が今頃凄くバレーに惹かれる〜習いたい〜、わははは。あ〜あ、私の骨がもう少し柔らかかったらなぁ〜、足が空手のポーズの時90度真横に上がらないんですよ、とほほ。
ふみちさんは優しいご主人様に出会われて良かったですね!前半凄く恵まれた人生でも、後半とんでもない男と結婚したりして大変なドンデン返しもありますから、「終わり良ければ全て良し」ですよ。その義理母様の名台詞ね「おしん」で使えるわ。(爆)
本当に母達の時代は強かったのですね。戦争も体験して食料不足もですからね〜。 戦後生まれの私には想像もできない生活だったのでしょう。
じゅんさんのご実家は私のところととても似ていたのですね。違いはじゅんさんのお祖母様はとても優しい方だったことです。 私の祖母は孫たちにはごく普通だったのですが3人のお嫁さん達には厳しくて皆泣かされました。 でもそんなことを知ったのは大人になってから。 いとこ同士はそんなことには無頓着で楽しい大家族でした。 私と同じ年のいとこは姉よりも色々話せるくらいです。
私の年代は同居している人が少ないかもですね。姉もいとこたちも義理家族とは同居していません。ですから母達の苦労は全く経験していないのです。
そうですね〜母とは昔話を中学生の頃から少しずつしていましたね〜。本当に今になって聞きたい事が沢山あります。鹿児島には95の伯父 88の伯母 80の伯父 77の叔母がまだ元気ですからもっと昔話を聞きたいところですね〜。
Makoさんの会社は車でどのくらい離れているのですか。ベイエリアのような渋滞はないでしょうね。
知らない間に娘が里子に出されるって。。。。言葉がないです。 でもそれがとおっていた時代なんですね。まるで宮尾登美子の世界ですね。
養子だったということはお祖母様は娘さん(つまりMakoさんのお母様)を今度は最後まで手放さなくてよかったのですね。 2度目は幸せな結婚でよかったですね。
Makoさん、遠慮しないで言いたい事を言える仲っていいじゃないですか!
本当におっしゃるとおりですね。先日PBSでパキスタンの少女たちの結婚のドキュメンタリーを見たばかりでまだまだこうして女性がしたげられているのを見て悲しくなりました。
当時 バレーやピアノを習っている子は少なかったです。小学校に入ってからも周囲にはピアノを弾く子もほとんどいませんでした。当時鹿児島にあったのが不思議なくらいです。
夏みかんでつくりますか!!夏みかんなら最初にしっかりと1時間はゆでたほうがいいかも。私 夏みかんではつくったことないのですよね。 そうそう!私もレモンで作りました!レモンはカチカチになります。オレンジもチョコレートをつけないとかちかちになります。 何しろこちらではキャンディーオレンジって呼ばれているくらいですから。 やわらかく仕上げたい時は最初長くやわらかく茹でて 砂糖煮も長めに煮たほうがいいです。
お母様も10年も長い間大変だったのですね。
お話を伺うと実家と似ています。 私は6歳まで祖父母やいとこ達とくらして小学校の一年で新しい家に引越ししたのです。 母は祖父母から遠くなって(歩いて40分くらいでしたね)とても明るくなって嬉しそうでした。 それから小学校6年間はこの家で暮らして中学の時に又祖父母の家に戻りました。そして今度はいとこ家族が私たちが住んでいる家に引っ越してつまり交代です。 その頃は祖母も色々母の世話になったので昔と比べるととても優しくなっていましたね。 中学から帰ると一番に祖母の部屋に行っておやつをもらっていました。 かずこさんのお母様は若くして亡くなられたのですね。本当に!私ももっと聞きたいことがあったのにと思います。
じいさんはご近所さん関係になると私よりも社交的です。 じいさんも家にこもって好きな事をしているのが一番幸せで全く飽きないみたいですよ。むべさんのご主人様は退職なさったばかりですよね。暫くは何もしたくないのではないでしょうか。 私は退職して一年くらいはコンピューターゲームばかりしていましたよ。じいさんも家のお手伝いは今よりしてなかったですね。コーヒーも淹れませんでしたよ。徐々に変わってきました。 むべさんと一緒なら出かけられるからいいではないですか。じいさんが2,3週間に一度朝食にでかけるお友達はもう77歳です。 段々お友達が亡くなったり病気になったりでさびしいです。
ふみちさんの言葉通り 心が壊れた方ですね。 信じられないほどというか病的に壊れているような酷さです。
ご主人様が優しい方で良かったですね。そしてよく耐えましたね。 私なら。。。想像がつかないです、そんなことをされたら。 私はあまり我慢をすると切れるかもです。
でも逆じゃなくて良かったです。 お姑さんから優しくされてもご主人が怖い人だったらもっと大変ですから。 幸せな結婚で本当によかったですね。
きっと仲のよいお二人にやきもちもあったのでしょうね。
現在沖縄に戻られたのですから又踊りも始めることはできないのですか。 このまま止めてしまうのは勿体無いですよ。 小さい時に身についたものはきっと又復活できます。反対に年をとってから覚えたものってなかなか身につきませんね。止めたらすっかり離れてしまいます。
折角沖縄に帰られたのですから又始めるといいですよ!
お母様一人で4人も育て上げて凄いですね!! お母様はお元気なんでしょう。 そうして子供達が大人になって感謝してくれるようになってお母様も嬉しいでしょう。
はいはい、分かります。武士の家系のかたは大変そうでした。 特に鹿児島の武家は厳しかったことでしょう。母のお友達にいらしたのですが子供さんたちの結婚も大変だったようです。みいぼさんのご両親は昭和生まれでしたか。鹿児島は特に男尊女卑は厳しいルールでしたね。祖父母と同居の頃はお風呂の順番もしっかりとルールがありましたね。両親は大正生まれでしたけど、矢張りそういう封建的なところは変えたかったのでしょう。4人家族になってからはお風呂の順番なんて廃止になりましたよ。本当に変わりましたね。今はどうなんでしょう。今の若い鹿児島人は。
義母は、去年還暦でした。
私は、人から敵意をこんなに向けられた事がなかったので、ものすごくかなしかったです。でも、こんなことはよくあることなんだと思いつつ、まだまだ自問自答する毎日です。私も義両親にされたことを思うと心がどす黒くなることもありますが、主人が優しいので、幸せを感じる方が強いです。
お前が名前をつけるな!!といってきたのは義父なんです(ToT)
義母は1ヶ月近く孫の顔を見に来てくれませんでした。
孫の抱っこも腕が痛いからと断られ生まれて一度も抱いてもらった事がありません(*_*)
なかなか難しいですね(笑)
おしんよりはるかに怠け者でだらしない私です(笑)
三年お付き合いして、結納、入籍、引っ越しまで段階を踏んで終わった後に言われた言葉なので…なぜ野良猫扱い…?とハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。土下座して謝れ!と言われ、なぜか泣きながら土下座して謝りました汗
今ではそれも懐かしい思い出になり?!友達が、あまりに贅沢な姑の愚痴を言うときには(友達:姑が息子や孫に会いたくて、クーラーをかってあげると物で釣ってくる!等うらやましい愚痴です。)私の怖い話を聞かせて、「私は恵まれている、義両親を大事にしよう!!」と友達が愚痴をやめて怯えます(笑)
お義母さま、もしかしたら心が壊れている・・・つまり本当に病気なのかもしれません。
アルツハイマーと似た病気にピック病というのがあります。
これは物忘れとはちがい、性格が凶暴になっていく脳の病気です。そういう病気になる土台があり、そこへ大好きな息子をとられたショックのあまりいっきに病気が進んだのかもしれません。ピック病は脳がすかすかになっていく病気のようです。でも実際に見極めるのがとてもむずかしいよう。病院に患者を連れていくのも、患者の性格が豹変しているからむずかしいのです。
もしかしたら精神の病気と思えば、またお義母さまに対する気持ちもちがってくると思います。ふみちさんに対するしうちは普通の人間の意地悪の度を越えています。
35歳という若さで、よく耐えてきましたね。やさしいご主人さまと仲良く暮らしていってくださいね。
チブリッツさん、すみません。場所お借りしました。ぺこり。
ふみちさん、
ど、土下座って何よ!江戸時代の武士じゃあるまいし、やっぱかなり変!(涙でちゃったわ)元々九州はちょっとおかしい所あるけど、義理のご両親の言動はそれ通り越して異常だわ。似たもの夫婦って言うけど、お二人ご一緒にピック病を患われたのかしらね?!35歳でよくぞそんな人達に我慢してこられましたね、凄いわ。良き理解者である旦那様とお子様達と一等お幸せな家庭を築いてくださいね!
人間として全てを嫌悪されているのをひしひしと感じました。
私はその感情を全てぶつけられるとき、まだまだ20代で、何がなんだか分からず、家に帰り泣くだけでした。主人も一緒に泣いてました(*_*)
今、冷静に考えると、病名のある病気なのかも知れないですね…そうなると、余計に近づいてはいけないですね。アドバイスありがとうございます。最初のコメントしたあと、実は何を姑の悪口書いてるの!!とどなたかに怒られるのではと経験を書いたことを不安に思いました。でも、優しい言葉をもらえてほっとしまはし。 ありがとうございます。
励ましのコメントありがとうございました♪夫婦でこれからも子育て頑張ります!!
ふみちさん、
きっといつの時代もどこの世にも思考回路のねじ曲がった人は居て、時代と場所が違えば、独裁者になったり、犯罪者になったり、拷問をする人になったり、逆に共同体から排斥されて、朽ち果てたり。どなたかがおっしゃっているように、器質的な病が原因となることもあるでしょうが、そういう人格的な欠陥を病気とするのも考えてしまいます。残念ながら、邪悪な人間というのは一定割合で存在するものなのかも。
ただ、私が一つ思うのは、そういう人たちを他人が改善することは非常に難しく、改善したいと思うなら自分の人生を費やすことになるのではということです。最善の策はかかわらないこと。でもそれが家族だったら?その苦しさ、少しわかると思います。私にとっては妹がタイプは違いますがそういう存在です。どちらが正しいかというよりも、人間として何が正しいかを見つめて、家族であっても、かかわらないべき物はかかわらないよう精一杯努めるだけです。
ご主人が良い方で本当に良かったです。ご主人が良い方なのはふみちさんが良い方である証ですよ!
私も腹が立って涙がでましたよ!
ふみちさんの傷が、いつか癒えますように。
心優しいふみちさんが、今は優しいご主人と幸せに暮らしておられること、本当によかったです。
そうそう何だか私の子供の頃も酔っ払いが多かったですよ〜。宴会があると必ず酔っ払いが出て泣き上戸がいたり怒り出す人がいたり。宴会は大嫌いでした。
踊るのがすきだったり歌うのが好きな人は凄く羨ましいです。 とても健康に良いらしいですね。運動神経が発達するのでシニアになって転びにくいとか脳の刺激になると聞きます。 私みたいにこうしてパソコンの前ばかりいるのは良くないですよね〜。
子供は天国でしたよ。いとこ達と毎日遊ぶのが楽しい。。。それだけでしたね〜。本当に昔の女性は嫁いで義理両親と一緒に住むのが当然で楽しい結婚生活なんでものじゃなかったのですね。
私の周囲にもシニアで社交ダンスを楽しんでいる方が結構いますよ。私が習ったのは息子の結婚式の前だけ。 もうすっかり忘れましたよ。続けていたら姿勢もちっとは良くなっていたかも。
鹿児島人が怖くなるのは当然ですよ!そんな体験があれば。 私だって祖母が怖い時は佐賀人は怖いって思いましたもん。
ふみちさんは本当に優しい方なのですね。 私はそこまで思えないかも。 だからご主人様もいつもふみちさんの見方で優しいのでしょうね。
本当にふみちさんは優しいかたですね。 ふみちさんはとてもとても幸せな方ですよ。こんな優しい性格は宝です。
子供が嫌がることは無理にさせるものではないですね。私も自分で反省することがたくさんあります。 娘が大人になって今頃になって言われるんですよ。 全然気がつかないでごめんなさいと言っています。
ここは大きなバレー教室でピアノレッスンもありましたよ。一番上の従姉と姉はここでピアノを習っていました。
あはははは! 私がバレー???ひっくり返ってもありえないですよ。でもでもピアノは習いたかったですね。でも結局は手根管症候群で止めたでしょう。私、はらさんがならったの一つもしませんでした。
どうぞどうぞ会話の場としてご自由にお使いください。
というのが私はそのことが半信半疑だったのですよ。
母が50代前から社交ダンスをずっと続けていたのですよ。
お金も費やしたみたいだけど。
コンテストに出たりとしていましたよ。
贅肉はなかったし背中もまっすぐでした。
80歳を超えたいまでもそうですよ。
母が言うには転びそうになったりいろいろしても骨も折れないし、また転ばないのは昔ダンスをしていたからだというので私はそんなことないのではといった覚えがあります。
母が私はダンスをしていたおかげで運動神経が発達していたというのは本当だったのですね。
今度母に伝えておきますよ。
「かかわらないべき物はかかわらないよう精一杯努めるだけ。」ここまでくるのに、4年かかりました。
とにかく、嫁ならば家に来い!嫁ならば全てを手配しろ!嫁ならば恨み言を言われても黙って聞け!とずっと言われて、
家に来いと言われて行かないわけにも行かずで・・・・
でも、ゴミをプレゼントされたのをきっかけに主人も決断してくれました。
主人は両親がこんなことをするのを悲しかったようで、涙を流していました。
かわいそうでした。
人間、色んな人がいますね。
私は人に優しくありたいです。
ありがとうございます。
結婚10年目にして、すこし遠くで起きたこと・・・として思い出として霞んできました。
娘は時々主人が連れて会いに行くので、悪口は言わず過去のことも一切話さずにきました。
娘がお嫁に言って贅沢なお姑さんの話でもしたときは、私の怖い話をしてあげようと思います笑