アメリカには福島原発と同じ型GE Mark Iの原発が23基、 これに似た原発GE Mark IIが8基残っており水素爆発事故を回避する為の放射能フィルター付きベントを作るようにNRCのメンバーが去年提案しました。  $220ミリオンドルの経費がかかる為にアメリカ原子力業界ではロビイストを使って反対をしています。 最近はNRCのメンバー内でも反対派が出てきました。 ドイツの原発には全部このフィルターが取り付けられています。 フィルター付きベントの取り付けが可決されるよう NRCと州議員に嘆願書を出しましょう。 

嘆願書には全zipcode(9桁)が必要です。 ここで調べられます。

嘆願書はこちら。 名前とZipcodeを入れてクリック送信するだけです。 住所は不必要です。

devider

足と因縁

私の脳が、痛みに耐えかねたのだろう。
足の痛みで目が覚めたのは2階の部屋の布団の中で朝方であった。
目が覚めた途端に、頭の芯まで突き刺さるような傷みが右足首踵から発信している。もう痛くてたまらない。こんな痛みは今までに経験した事がない。目が磁石で引き付けられるように、足元へ行った。足元の布団を開けてみると、右足が像の足のように腫れているではないか。確かに像の足の大きさはあった。

もう、布団から起きることもできない、身動きすることさえも痛い。痛みの中に、ぼんやりと薄暗く、夕べのことが思い出された。便所の戸と思って開けたのは2階の窓のガラス戸だったのである。あの当時はドアはなかった。引き戸だった。そのガラス窓から私は思い切り入り込んで、じゃなく、飛び出して、足から先に立った状態で、落ちて、階下のアスファルトの道路に右足で立ったのが思い出された。どうしてまた2階に戻って布団にもぐりこんだかは覚えていない。

まだ誰も、私が、2階から落ちたことは気づいていなかった。私自身も落ちた確証はなかった。朝一番に私の布団に来た奴に、「夕べは飲みすぎて、そこの道のコンクリートの塀を足で思い切り蹴ったんがこの始末や」、と言ってごまかした。とうとう医者にも行かないで2週間ぐらい布団に寝たままで治ってしまった。2階から真っ直ぐに落ちて右足で立った、その足が医者へ行かないで治ってしまった。世の中にはこんな不思議なこともある。これは私の喜界島のウヤフジ(ご先祖様)が治してくれたのである。「ウヤフジが戒めて治してまでくれるたのや」。喜界島のオメトおばあさんなら、必ずこう言った筈である。

私の人生は手よりも足にまつわる思い出が多いようである。
この足の話は21歳の頃の話である。東京小石川にあった、おばさんの小さな印刷屋でアルバイトをしていた。仕事が終わると仲間とすぐ近くの柳町商店街の酒屋へ行って、立ち飲みしながら、仕事の鬱憤を晴らすのが一番の楽しみであった。そこでいい加減に酔って、次に、おばさんの家の横にある2階の寮で思いっきり酔う。

寮に住んでいるのは喜界島の私の小野津村出身の若者が多かった。中学を卒業すると私の村の多くの若者がこの東京文京区小川周辺の印刷屋に集団就職した。東京の印刷業界では名の知れていた三晃印刷、慶昌堂、そして、その下請けの小さな印刷や、鉛版屋さんの多くが私の村出身の先輩が経営していた。三晃印刷の社長さんは日本印刷組合の組合長をしたこともあるから、島では相当な有名人だった。慶昌堂の社長は私の親父の腹違いの兄弟である。その有名な先輩にあこがれて、頑張って独立して印刷屋さんを経営している私の村の人は今でも東京に沢山いる。

言葉の違う島の若者は東京の酒屋の親父さんを相手にはまだ日本語が流暢に口から出てこない。まだよく知らない、慣れてない東京、そして、すらすらと日本語が出てこないから、バーやキャバレーへ行きたくても行けない。英語に自信がないから、今だにアメリカのバーへ行けない今の私と同じ心境だったと思う。

酒屋で立ち飲みの後は、寮で、小さな村で家族みたいに育った若者たちの島の方言で語らいながらの島の話や女友達の話に毎晩夜明けま飲み続けた。みんな若いし、グテングテンになるまで酔う。いくら酔っ払って我を忘れても誰かが面倒を見る。これが同じ村同士のもののよさだ。この宴会が唯一のヤマトでの楽しみだったように覚えている。酒が切れると必ず誰かがポケットからグシャグシャの紙幣を出して、一番若い奴を二人以上一緒に酒屋に行かせて酒を調達した。二人以上行かせるのは理由があった。日本語が通じないかもしれないのと、まだ田舎もんだから、買い物の度胸がないからだった。

いつものように島の若い奴が7、8人集まって飲んだ夜に私の足は像の足になったのである。この夜の出来事は私は東京を離れて、大阪に行っても、その事件以来4、5年は誰にも話さなかった。だから、私のこの事件が人に知れ渡ったのは、事件発生以来4、5年後のことである。このおしゃべりの俺が、こんだけ長く沈黙したのも私の歴史で最長であるかもしれない。それは先祖代々長年続いた村でも古い上園田家の歴史に汚点を残すかもしれないと恐れていたかもしれない。

私の足にまつわる思い出話はまだある。夜間高校生の頃は電通の運動会のマラソンを素足で走り、アスファルトの熱さで火傷をしそうになりながら走って2位に入賞して、有名になったこともある。小さい頃、板に打ち込まれた釘を踏んで、足が腫れた思い出は何回もある。小学5年生の頃は馬に鋤をつけて畑を耕やしながら、危うく、鋤で、足の脛を切りそうになったこともある。でもなんとなく大事にならなくてすんでいる。

アメリカに来てからはとうとう、足が動けなくなって身体障害者になってしもうた。ビールの飲みすぎで通風、関節炎になって両足の膝がまた像の足みたいに何回も腫れて、とうとう、大工仕事ができなくなり、身体障害者になったのである。自分の足だけではない、喜界島で私は小さい頃、もの作りが好きだったから、よく金槌で板に釘を打って、箱みたいなのを作ったり、潰したりしていた。釘のついたままの板をそこらに放ったらかしにし、素足の美代ねえがその釘のついた板を踏んで、化膿させて苦しませたこともあった。

これは私のことではないけれども、私の親父も、昔、サトウキビの刈り入れの一番忙しい時期に足に釘を踏んで、その年はとうとう、収入源である砂糖つくりができなかっとことを覚えている。その時のお袋の怒っていた、顔が今でも思い出される。でも、どうして、親父はわざと釘を踏んだのではないのに、お袋がそうかんかんに怒ったかわからなかった。今思うとあの当時お袋と親父はあまり仲がよくなかったような気がする。

私は親父の父、つまり私のおじいさんは知らないが、生前、彼も片足が悪くてビッコを引いていたという。やはり前世の何かの因縁だろうか。それにしても私は人間様だけでなく、私がパラグアイで飼った豚までもが、後ろ足の右か左がビッコだった。その豚から、生まれた5匹の子豚の何匹かもやはり後ろ足の右か左がビッコだった。私は今までの私の足にまつわる話をこの手で究明したくなった。

私は豚たちを殺して肉にして売る前に、豚のビッコの足を、外科医のように包丁で手術して、詳しく、調べてみた。そしたら、どのビッコの豚の足も、同じところの小さな針ほどの神経が黒くなって固まっていた。どうして、私の飼った親豚も子豚も、親父も、私も、おじいさんも、足にまつわる病気が多いのでしょうか、これを前世の因縁というものでしょうか。これを自然の摂理というのでしょうか。昔の喜界島の年寄りたちはよく言っていた。「悪いことをするな、ええことをせよ、お天道様が、雨だれに隠れて見ている」

小さい頃、親父からよく聞かされていた話を思い出した。
「種子島鉄砲ができた頃、よその村から侵入者があったら、鉄砲を持って、追っ払っていたらしい。うちの祖先はその侵入者を射殺したら、かわいそうやと思い、足をめがけて、鉄砲を放ったそうである」

 でもこの私にはわからないことがある。足をめがけて鉄砲を打ったが、鉄砲の引き金を引いたのは手である。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。

2011_10_07_tokusan


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