すぐ隣に引っ越してきたアメリカ人夫婦が「こんな珍しい事をする人が世の中におるんだろうか」と言いたいような顔で、フリムン徳さんを見つめる。ビデオに撮りたいとも言う。フリムン徳さんが分解している、いや、わかりやす く言えば、ジープを切り刻んでいるのを見ての話である。

車社会のアメリカで大量に出る廃車は大きな機械で押しつぶして、四角い小さな塊にする。それを積んだ大きなトラックがフリーウェイを走っているのをよく見かける。娘からもらって、乗り潰したGEOジープ、36万キロも走って(日本では何10万キロで廃車にするか知らないが)、故障が多く、修理費が高くつくから、廃車にした。

もうすぐ満70歳になるフリムン徳さんはエッセイの達人になるのが夢である。老後の趣味としてどないかして、エッセイの文章が上手くなるように、毎日コンピューターを打ち始めるのだが、2、3行ですぐに、止まってしまう。 禿げ頭を撫でるが、なかなかエエ文章が浮かばない。

エッセイ書きで行き詰まると、フリムン徳さんは、作業服に着替えて、家の横庭に出る。廃車にしたジープを切り刻むのである。ドア、ボンネット、屋根、外枠の鉄板を大きなハンマーで叩き、鉄ノコで切り、グラインダーで削り、外れないネジ、ボルトは、グラインダーで削り取ってしまう。
ドアは、ガラスの部分と鉄板の部分を鉄ノコで切り離す。ボンネットは、真っ二つに切り裂く。屋根の鉄板は4つに切り離す。エンジンは、鋳物だから、大きなハンマーで叩くと割れる。手ごろな大きさにたたき割る。
勿論、大きな騒音も出るが隣の家までは500メートルも離れているので問題にならない。ジープを切り刻みながら、次に書くエッセイの構想を練ったりする。フリムン徳さんにとってはいい気晴らしの仕事なのである。

フリムン徳さんの庭に現れた新しい隣人は言う。「自宅で車の解体なんて見たこともないわ。何かわけがあるの」。「エッセイのネタ作りのためですよ」。 フリムン徳さんが言う、横から嫁はんが「トムのエクササイズよ」。フリムン徳さんの本心は、暇つぶしと、お金の節約と、少しだけのお金儲け、のためである。

小さなジープの処分でも、70歳の老人には面倒な事だ。鉄くず屋にこのジープを持ち込みで売るとたったの10ドルぐらいである。冷蔵庫は2ドル50セント。一方、引っ張って行くトレーラーを借りるのに、5、60ドルもかか る。アホな話や。電話をすれば、引き取りにも来てくれるが、それも同じくらいかかる。フリムン徳さんの乗っている韓国製のKIAの乗用車に積めるサイズに、切り刻んでから鉄くず屋に何回にも分けて持って行くと、このジープ1台の鉄くずで50ドルぐらいになる。でも、1万ドル以上もしたジープがたったの50ドルか。世の中、おかしいなあ。それだけ分、乗ったということやなあ。

この辺の牧場地帯にはピカピカの新車は似合わない。ここに住んでいるアメリカ人で、新車を買う人は少ない。ほとんどの人は、2、3万キロ走った車をディーラーから買う。ほとんど新品と同じだし、値段もぐんと安い。新車を買うのは、ピカピカの皮靴を履いて牧場の牛を追うようなものだ。この辺では車を磨く話を聞いたこともない、見たこともない。もちろん、フリムン徳さんも車を磨くことはほとんどない。

使っているうちに古くなり故障が多くなると、それは家に置いといて、また、別に中古の車を買って乗る。それの繰り返しである。土地が広いから、車を置く場所はいくらでもある。たいていの家が4、5台の車を家にほったらかしている。フリムン徳さんも4台ある。そのうちの2台は使えない車だ。このジープがそのひとつである。

解体が進み、屋根を切りとられ、回りの鉄板、椅子、ボンネット、エンジンの回りの鉄板がなくなり、丸裸の4つのタイヤの車体の上にハンドルがぽつんと取り残されている。それは荒れ果てた田んぼの中に、よれよれの布を羽織った案山子より寂しい、無残な姿である。
今まで、長年、乗せてもらい、助けてくれた車を切り刻んでいくのは楽しくはない。寂しい、悲しい。罰が当たるのではないかとさえ思う。でも老人の身の回りの整理の一つとしてもやらねばならぬ。

切り刻みながら車の中身をよく見る。数え切れないほどの沢山の部品を作り、それを順序良く、適材適所に組み立てる。いったい、何百人の手がかかっているのか。一人で仕事をして家を建ててきた元大工のフリムン徳さんには、驚きである。それにしても、一人でも作れる家の値段がどうして車の値段より高いのだろうか。フリムン徳さんの家が50ドルということはあり得ない。

ジープを切り刻みながらフリムン徳さんは大事な事を発見した。
何かの筆記試験を受ける時、必ずしも、出題順番に解答しなくてもいい。難しい問題は飛ばして、できる問題から解答していく。ジープを潰していて、なかなか外せないところや、手間取る箇所は、後回しにする。簡単で早く取り外せるところから先にやっておれば、いつの間にか、はかどっていることに気が付いた。「人生においても同じことが言えそうや。フリムン徳さん、70歳にして、そんなことに気が付いたのか、遅いのう。

by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。

2011_10_07_tokusan


今日はフリムン徳さんのエッセイを最後までお読みくださりありがとうございました。
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