
風味が格別の野いちごを植える
サンホゼのジャパンタウンにある

Japanese American Museum of San Joseに孫達を連れて行きました

日系アメリカ人の歴史と文化を伝える博物館です
最初に見たのは 第二次世界大戦の強制収容でした

日系人が家を処分して 送られてきたのは競馬場の馬小屋を改造した仮設住宅
元々は1頭の馬を収容するスペース(約3mX6m)に3人から6人の家族が詰め込まれました
部屋は馬や肥料の匂いが染み込んでいたそうです
とても人間が住める環境ではありませんでした
ここまでひどかったとは知りませんでした
娘と孫が知らなかったのは日系兵士(第442連隊)のことでした
ドイツで包囲された200人のアメリカ兵士を救助するために 送られた800人の日系人の決死隊
救助に成功するも 日系人200人が死亡し 600人が負傷したこと
大成功を収めたのに 勝利者としてローマに入れなかったこと
子供たちは憤慨していました
アメリカ政府は1988年 日系人に謝罪しました
二軒先のご近所さんはあの時2万ドルもらって レクサスを買いましたね
当時 二万ドルで済む被害じゃないだろ…と思ったものです

帰りの車の中で子供達と話しました
80年後の今でも戦争が続いて 何も変わっていないね…と言う孫の言葉に同感でした
人間同士が今でも殺し合っていること ICEに捕まった人達が収容所で人道的に扱われていないこと
辛い思いをしている人に慈悲や優しさをもてたらもっと平和な世界になるでしょうにと話したことでした
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ちびは20歳4ヶ月のトイプードルでした





















コメント
コメント一覧 (6)
その連隊の特集番組も見ました。この連帯では、上官は日本人ではなかったようです。そして、圧倒的不利な情勢での突撃、さらにバンザイ突撃もあったそうです。
この番組を離れますが、
当時の日本軍では、もっと劣勢でも突撃した、さらにバンザイ突撃は自殺に近かったそうです。
劣勢の時に降伏する習慣がなかった。
日本は本当は経済的争いに負けた。また、日本では海軍はアメリカとの戦争に反対だった。山本五十六はハーバード大学卒業だった(?)。陸軍はソ連との戦争に反対だった。
カルフォルニアのばあさん
が
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子どもだったのであまり嫌なことは覚えていないと言いながらも、突然の移動命令だったので、元クラスメートに何度も手紙を出したけれど、返事は一度も来なかった、と言っていました。
それでもマンザナール収容所に入ってからは、鉄条網を潜って収容所外からどこまで遠くに行かれるか、などと友達と男児らしい遊びをしたものだ、とも。
もちろん見張り台の上には米兵がライフルを持って立っていましたが、「子どものすること。どうせ帰ってくる」と見逃してくれていたそうです。
まぁ、砂漠のど真ん中でしたからね。
422連隊では、カリフォルニア出身兵とハワイ出身兵とで気持ちの温度差があり、ハワイ出身兵は大した苦労もしていなかったのでよく意見が食い違った、という話もあったそうですね。
ドイツへ救援に行く時も、カリフォルニア出身兵は自分の両親の名誉回復のため、地位向上のためという熱い気持ちがあったのに、ハワイ出身兵の中には、ハワイの両親は特に収容所に送られることもなかったので、自分の命も大事にすべきだという意見が多かったとか。
死んだところで名誉の戦士とはならず、どうせ犬死になる、とも思っていたのでしょう。
義父は1988年の謝罪でもらった金銭を、「胸⚫︎悪いカネ」としてリノへ行って全部使ってしまったそうです。
あまり語りたがらなかった義父に、機嫌の良い時に半ばねだるようにして聞き出した話と、422連隊については小説「二つの祖国」からの情報でした。
カルフォルニアのばあさん
が
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夫の母はハワイの日系人でしたが、義父の大学卒業が随分と遅かったことを尋ねた時、義父が「だって僕はキャンプに行っていたから」と説明したところ、義母が「あら、キャンプ?楽しそうね。私も行きたかったわ」と言ってしまったとか。
義母が自分で言っていました。
義父の想像ですが、ハワイでは日系人を収容所に集めてしまったら農作業が止まってしまうからだったのではないだろうか?とのことでした。
カルフォルニアのばあさん
が
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私は満州で生まれました。戦争前の満州では満州電業か満州鉄道かどちらかで働いている人がほとんどで、父は結婚して、希望に満ちて満州電業で働くために、海を渡りました。兄が生まれ、私が生まれ、幸せに溢れていた、その2週間後、誰も予想していなかった真珠湾攻撃。
その間に弟が生まれ、私たちは家畜の飼料を食べるようになりました。
母と庭に落ちている不発弾を拾い、古い井戸に捨てるのが日課でした。
父はロシア語が出来たのでソ連軍に捕虜として連れて行かれ、母は母子家庭が多くなって来た近所では辱めを受ける前に集団自決に誘われたそうです。日本に帰る最後の船に乗る前に父は返されました。波止場までの長い日々、屋根のない、わずかな囲いのある貨物車に乗せられて大平原を越えました。子どもを中国人に託す人もいました。両親は私たち3人の手を決して離しませんでした。戦争のニュースで泣く力さえない母子の姿を見ると、胸がえぐられるようで目を背けてしまいます。人間が存在する限り、争いは終わらないのでしょうか。何と愚かで哀しいことでしょう。
カルフォルニアのばあさん
が
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コメントで皆様の先人の異国の苦労の生活も読ませて頂き今の平和も先人に感謝しかなく大切にしたいと思います。
父も広島原爆の時、近くの島で体験し生前、現状は話してくれませんでしたが依頼された本に「悲惨な現状に数本の花が芽を出し生きる力をみた、、」とありました。皆、戦後不安だったのでしょう。今、大学生の兄孫が高校生の時「僕を靖国神社に連れて行って下さい」と言われ一緒に行き、本堂でお参りさせようと探したがいない。。本堂の陰で泣いてました。桜の木はどれ?と聞くので教えたら「ここで特攻隊の皆は会うんだね」と。。彼はなぜ戦争が起こったか、、本を読み、軍艦の模型も作ってます(余談ですが曾祖父が軍艦の艦長だったので遺伝子?)孫と戦争の愚かさ、疑問をよく話します。愚かな真実も教わります。次世代の為にも世界平和、命の大切さのわかる人物に国を委ねたいですね。
カルフォルニアのばあさん
が
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他人の国を取ろうとする 何時代?なんて思うぐらい後退しているように
見えてしまうのは私だけかなぁ〜
本当に何度も何度も悲惨な事が起きているのに なぜ人間は仲良くできないのか
わからないです。
サイパンに行った時 観光タクシーでバンザイ岬に行った時 運転手さんから
「日本軍が 自決しろと言ったから ここから地元の人はとびおりたんだよ」
と 説明されて ショックを受けたのを覚えています。
世界が平和で暮らせる事を祈ります。
カルフォルニアのばあさん
が
しました